仲田修子話 103

そういうことを頑張って続けていた修子。 いくら体力があったといえ、身体があまりにもきつかった。 ある日ディスコの楽屋に行くと例のフィリピン人バンドのメンバーが何か薬を飲んでいた。
「それは何?」と訊ねると睡眠薬だった。

それを分けてもらって飲んでしばらくすると、少しボーッとなって体が楽になるような気分になった。 当時・・・それより少し前の時代に「ジミヘン」「ジャニス」とかのロックスターがドラッグで若死にすることが多かったが、そうなってしまう理由が少し解る・・・そのとき修子はそう思った。

しかし無理はやはり確実にダメージを彼女に与えていた。

そういう日々を続けていたのが祟ったのか、ある日修子は「虫垂炎」になってしまった。

しかも、よりによってその3日後に渋谷の「ジァンジァン(注)」を会場に、修子の「ワンマンコンサート」が開かれる予定になっていたのだ。 彼女の事務所が企画して、修子のオリジナル曲を歌うというこのコンサートの企画は、すでにチケットの前売りは売り切れ。 当日のバックをつけるバンドマンの手配も済んでいて、あとはそこへ行って歌う・・・そこまでの段取りがすでに決まっていた。

今更中止も延期もできない。 仕方なくとにかく痛みを散らす薬を病院で処方してもらって、なんとかコンサートは開くことができたが、おなかの痛みもだが右脚がほとんど動かせず引きずるような状態で歌ったが・・・あとでそのとき録音したものを聴いたが、どの曲も音程がフラットしまくっていてとても聴かせられるような状態じゃ無かった。

その直後修子はようやく病院へ行き手術を受けたのだが、本当に下手をしたら死んでたかも知れない・・・限りなくデンジャラスな事態だったのだ。

ところで・・・皆さんはここまで読んできて「おや?」と思わなかったろうか。

「ジァン・ジァン」でのコンサートは仲田修子のオリジナル曲を歌うため・・・

そもそも彼女は何百曲のレパートリーは持ってたがそれはすべてスタンダードや歌謡曲のカバーばかり・・・ハコの仕事をするためならそれでもう充分な量だ そもそもハコでオリジナル曲を歌う必要なんてほとんど無いはず・・・。

それなのに多くのオリジナル曲を作ってた? それはいつから・・・?

ちょっと不思議に思われるかも知れない。

そうなのだ 実はこのエピソードの前にそうなるきっかけとなる大事件があったのだ。

この話は正直筆者も書くのが辛い・・・できれば書かずに通り過ぎてしまいたい。

そう思うのだが、実はこの事件こそが今の皆さんの知っている仲田修子が生まれる大きなきっかけになったので、書かないわけにはいかない・・・それは中学生のときに突然彼女を襲った悲劇 それをも上回ることだったのだ・・・・。

注;「渋谷ジァンジァン」は渋谷の「山の手教会」の下に1969年から2000年まであった収容観客数200人未満の小劇場 舞台の左右に観客席があるという変則的なスタイルが特徴で、文字通りアンダーグラウンドで、前衛舞台芸術の発信地として機能してきた 先端文化の発信地としての役割を担っていた

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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