仲田修子話 112

その後も色々なレコード会社のディレクターやプロデュ-サーたちとコンタクトを取らされたが、すでにこういう連中たちにうんざりしていた修子は彼らに対してまったく相手にせず態度を悪くしていた

たとえば「私たちはニューミュージックを作っていこうと思いまして・・・」などという相手には「私はオールドミュージックが好きなんです」とやり返したり、当時「ユーミン」のマネージャーをしていた人物が会いに来て「五輪真由美」とかその事務所に居るタレントの名前を次々に挙げて・・・
「知ってるか?」と訊くので「知りません」と答えると「ではあなたは一体どんなミュージシャンが好きなんですか?」と訊かれたので面倒くさかったので、そのときとっさに浮かんだ名前を出した

「ええ、フランク永井です(注)」そう言うと彼は黙って帰っていった


ここではっきりさせることがある

修子はわざと意図的にメジャーからの誘いを潰し続けていたのだ 元々はハコの仕事を続けてお金を貯めて自宅やアパートを建ててそれで母親や弟をもっと楽に生活させてあげよう・・・そう思っていた修子のビジョンが弟の死によってすべて崩壊してしまった

修子がライブハウスに出続けていたのは実は「死に場所」を求めていたからだったのだ

歌うということはたとえば山伏などが悟りを開くために滝に打たれたり、焼けた炭の上を裸足で渡るなどという苦行と一緒 それを見たどこかの見世物系のサーカスの人間が「それをお金を取って毎日どこかで見せてやってくれ」と誘うのと一緒だと・・・

そうそう、この記事のインタビューをしていてその中で修子自身が気がついたのだが、比叡山延暦寺で今でも行われている「千日回峰行」という荒行 これは延暦寺を拠点として約1000日間、毎日雨の日も雪の日も山中をものすごいスピードで駆け巡るという修行を続け、最後には1週間何も飲まず食わず不眠で経を唱え続けると言う荒行で、途中で死に至る行者もあったというのだが・・・彼女のライブハウスでの活動はこの行に近かったのだ

「売れたい」とか「儲けたい」という思いがあったとしてもそれは「ハコ」よりもずうっと楽な条件なら少しは考えたかも知れなかったが、とにかくレコード会社・・・というより、その周りに居る「プロデューサー」と称する怪しげな人間たちが持ってくる話はすべてどうしようもなくレベルが低かった おまけにどの人物もいかにも低脳な感じがして・・・だから修子はこういう手合いの連中を一切相手にしなかった

注;「フランク永井」 戦後の歌謡曲界で人気のあった歌手 「低音の魅力」というキャッチコピーで知られる その甘くて低い声でファンを魅了した ヒット曲に「君恋し」「有楽町で逢いましょう」などがある 57歳のとき自宅で首吊り自殺を図り命は取り留めたが脳に重い障害を抱え引退 2008年に肺炎のため76歳で死亡

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

出演するには?

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする