仲田修子話 116

ところで、ソロでライブ活動をしていたとき修子はテレビに・・・それも3回も出演したことがあった それは事務所が修子を売り込もうと思ってプロモーションとして仕掛けたことだったのだが、色々な番組に出演した あるときは弾き語りシンガーを4~5人集めて1人1曲ずつ歌うというようコーナーで、夜のバラエティー番組にゲストで呼ばれて歌った どの番組でも修子は必ず「お夏」を歌った

そうしたことがあった後のある日、修子は両国にあった「フォークロアセンター(注)」を下見の目的で訪れた するとそこにもう1人若い青年が来ていた なんとなく会話をしているうちに彼が「どんな音楽をやってるんですか?」と訊いてきたので修子はそのとき決まっていた自分のライブの会場と日時を教え「今度聴きにきてくださいね」と誘った

そのライブの当日の会場にその若者が来ていた ライブが始まり修子が「お夏」を歌うと彼ははっとした表情を浮べた そしてびっくりしたような顔で「その曲、僕が北海道に居たときテレビで見ました」と修子に告げた へ~え、と思った修子はその後その店で彼と2人でギターでセッションをした

それがきっかけでそれからその若者は時々修子と一緒に演奏するようになった

当時その若者は武蔵境に住んでいてパン屋のアルバイトをしていると聞き修子が「どうなの?」と訊くと彼はそこでの仕事と暮らしがいかに過酷でヒドいものかと切々と訴え続けた その話を聞きながら何だかどこかちょっと頼りない感じのこの青年に対して「この子は1人で生きていけるのだろうか」修子はそう思った それで彼に「一体あなたは月にいくらあれば生活できるの?」と訊ねると「5万円あればなんとか」と言うのでその翌月から修子は自分の毎月の給料14万円のうち5万円を彼に渡すことにした そして、その頃から修子はその若者「有海治雄」とDUOを組み2人で演奏し初めていた

彼に渡していた5万円というのは別にそれに対するギャラという意味ではなく単に「可哀相だから」という修子の思いからだった 経済的に困っている相手を見捨てておけない・・・

彼女にはそういうところがある

当初、有海のギターを弾くときのノリが日本人の多くがそうであるように、ビートの表と裏がひっくり返った状態だったので修子は一生懸命それを治させるように指導した

そのDUOでやり始めた頃、修子と有海はマネージャーを伴って3人で東北地方へのツアーに出た それは初日が郡山の「ワンステップ」2日目が青森県弘前にあった店(名前は不明)、3日目が青森の「だびよん劇場」というスケジュールだった

注;「両国フォークロアセンター」国崎清秀氏が1960年代に墨田区両国にある自宅を改装して始めたスポット 蕎麦屋の二階で畳敷きだった 当初はアメリカのフォークミュージックの資料館としてスタートしたが、のちにアコースティックのライブも始める 筆者はここで当時としてはとても貴重だった本場のブルースンマン「ライトニン・ホプキンス「サン・ハウス」の8ミリフィルム動画を観てインパクトを受けた経験がある 現在も営業中

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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