仲田修子話 117

このツアースケジュールにはある仕掛けがあった それはわざと睡眠時間をタイムテーブルに入れない・・・具体的には演奏する時間と移動する時間以外はスケジュールに入れない つまり3日3晩不眠不休でツアーを敢行するということ・・・
なぜこのようなハードなスケジュールを組んだと言えば、修子はその旅の疲れで自分が死んでしまうことを密かに望んでいたからだ つまり「千日回峰行」の行者のようにライブの途中で死ぬなんてちょうど自分らしい死に方だと思っていた彼女にとって・・・受けるか受けないかとか、演奏の出来も含めてどうでも良かったのだ

そして福島から弘前・・・と長距離を移動して3日目、最後のスポット「だびよん劇場(注)」に修子たちは到着した 演奏を始めると客席の反応は修子たちが東京でやっていたときのお客よりさらにこわばっていて、受けてるのか受けてないのかもさっぱり解らなかった

元々受けるつもりはさらさら無かったのでそれは良かったのだが、修子たちが演奏したあとに「後座(クロージングアクト?)」として1人の地元のシンガーが歌い始めた その歌う歌がものすごい青森弁で・・・修子には彼が何と言ってるのか全くわからなかった それで自分の隣に居た有海に(彼は辛うじて青森が少しはわかったので)隣に居た人に「あの人は何と言ってるのですか」と訊いてもらうと・・・これまたよくわかりにくい言葉で「自分にもよくわからない」と答えたそうだ

まるで全く言葉の通じない外国へ来たようなキツネにつままれたような気分になった修子だった

そういうわけでこの「だびよん劇場」での自分の演奏の評判がどうだったのか・・・修子には全く解らなかったのだが後にこういう話を聞いた そのライブのときの模様をその店のマスターの「マキさん」という人がテープに録音していて、それをその後店に来たお客や出演者たちにたびたび聴かせていたんだそうだ 実は筆者のかみさん(青森出身)も若いときにこの「だびよん」に行ったことがあるのだが、そのとき修子の演奏のテープを聞かされて(その当時はまったく知らなかったのだが)「なんてスゴイ人が居るんだ!」と驚いたという

さて、この3日間の苦行の挙句・・・結局死ぬことはなく、それでもボロボロになって修子と有海、マネージャーの3人は東京に帰ってきた まさか遠く青森でその後自分たちが「伝説」になることになるとは夢にも知らず

その後も修子は有海と一緒に活動を続けていた ある日彼女は彼にこう言った
「あなた今の5万円で武蔵境のアパートの家賃を払うんだったらいっそのことここへ来て私らと一緒に住まない?」「うん」
そういうわけで、北沢のアパートにその後次々に住み込むことになる者たちの一番手として彼が住むようになった

注;「だびよん劇場」かつて青森県青森市にあったライブハウス兼小劇場「だびよん」とは津軽弁で「〜だろう」というような意味 ここのオーナーであった牧良介氏は、俳優・ナレーターとしても活躍し、津軽弁一人芝居をライフワークとし長部日出雄監督作品「夢の祭り」などにも出演した。また、青森文化のよき支え手、プロデューサーとして、高橋竹山、伊奈かっぺいなどを世に出した 1992年、牧氏の死によって閉館に追い込まれた

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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