仲田修子話 124

それから数日後、矢島は修子たちの住む東北沢のアパートに訪ねてきた 彼の家は吉祥寺にあったので「井之頭線」に乗ると下北沢の1つ先の「池ノ上」が一番近い駅だった 駅前には商店もほとんど無く、そこから6~7分歩くとアパートに到着する 当時は周りは静かな住宅街で、渋谷も近いし下北沢までも歩いて10数分くらいの場所にも関わらず、静かで長閑な街だった 2階建ての木造モルタルのアパートには4世帯が入居していて、独立した外階段を上がった2階が修子たちの住む家だった

そこに着いた途端、彼は妙に心が和むゆったりとした空気を感じた 家には修子と有海そして増田が居た 4人でコーヒーを飲みながら色々な話をした あっという間に時間が経ってゆく 矢島にとっても修子にとっても今まで出合ったことの無いそれぞれオリジナリティーを持ったシンガーソングイライターとの出会いはとても大きな刺激だった

音楽の話を色々した 修子はとくに彼がブルースについてかなり詳しいことに興味を引かれた 彼女はそれまでほとんど独学でブルースを聴いて、自分なりの消化をして曲を作ってきた しかし、その時点で彼女が聴いたことのあるブルースマンは「ベッシー・スミス(注;1)」と「ハウリン・ウルフ(注;2)」だけだと彼に話すと
「それはいいチョイスですね 僕もハウリン・ウルフは好きですよ!」と彼は答えた

そして矢島は修子の知らないブルースマンの名前を次々に挙げ、それらのどこがどう素晴らしいのか・・・熱を込めて語ってしかし、最後にこう付け加えた

「でも修子さんの作って歌うブルース、僕はすごく素敵だと思いますよ 今まで誰もやってなかったスタイルがあって・・・本物のブルースマンは皆そうなんですよ!」
「これからも私に色々ブルースのこと教えて下さいね」
「はい」

あっという間に時間は過ぎて夜になっていた すると1人の男性がアパートのドアを開けて入ってきた

「あ、紹介しますね 彼は私のハズバンドです」

それはもちろん進のことだ 彼は当時はコンピューター会社で働いていたのだ その後ずうっと長きに渡ってこの人物と一緒に仕事をすることになるとは、その時はもちろん知るよしも無かった矢島だった

そして夜もだいぶ更けてきた 家に帰るという彼を修子と有海、増田は池ノ上駅まで見送りに行った

「また遊びに来て下さいね」
「はい」
そう言って彼は改札の向こうへと消えていった

注;1「ベッシー・スミス」1894年にテネシー州で生まれ1920年代から30年代にかけて活躍したクラシックブルースのシンガー 「ブルースの母」とも言われている 1937年に交通事故死

注;2「ハウリン・ウルフ」1910年ミシシッピで生まれ40年代からメンフィスを中心に活躍したブルースマン のちにシカゴに出るが、ミシシッピの泥臭さを決して失わず以前公開された映画「キャデラックレコード」では白人に迎合しない気骨の男として描かれている 独特のダミ声は一度聞いたら忘れられないインパクトを持っている

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