仲田修子話 126

当時修子はほかにも色々なコンサートの企画もした

修子がまだオリジナルの弾き語りでの活動を始める前、あるハコで仕事をしてたときのことだ あるお客から「とんでもなく下手な歌手が居る」と聞かされ「とんでもなくって・・・どれくらい下手なんだろう」と何だか興味を覚え、その人にその「下手な」歌手が出ているという店に連れていってもらった

その歌手が出ていた店は渋谷のパルコの近くにあった 店に入り実際にその歌手の演奏を聴いみたら、実際は言われてたようなものではなかった そこそこ上手いじゃないか・・・修子はそう感じた そのシンガーはギターを弾いてジャズのスタンダードを英語で歌っていた どうやら修子を連れてってくれたその人は、ジャズのスタンダードなどよく解らなかったのでそう思ったようだった そのシンガーの名前はミナモトといった 修子は彼のことがけっこう気に入ったので話しかけその後友人になった 後に彼を介してジャズを演奏する何人かのミュージシャンたちと知り合いになった そのミナモトくんが紹介してくれた中に1人女性のジャズシンガーが居た 名前を「みっちゃん」といった

修子はその後みっちゃんたちジャズをやってる仲間を集めて「歌族会」というサークルを立ち上げた それは修子を含めて5人のメンバーで構成されていた

そこで修子は何か企画をしようと思い立ち「渋谷ジァン・ジァン」を借りてジャズコンサートを開催した コンサートの準備から企画、さまざまな雑事まで・・・ほとんど修子が独りでやったのだ コンサートは大当たりで満員になって大成功 ところが、それにケチをつけたのが例のミナモトくんだった その内容がまたどうしようもなかった 終了後全員で舞台挨拶に出たあとで「自分に当る照明が暗かった」とクレームをつけたのだ

それを聞いて「この人たちはダメだ ほとんど私が1人でお膳立てや様々なことをやってたのに彼らはほとんど何もしてない こんな下らない連中と付き合ってられるか」・・・と結局「歌族会」はそれっきり解散してしまった

その中で唯一その後も修子との交流を続けていたのが「みっちゃん」 彼女はその後もキーパーソンとなるようになる

その後、ライブハウスに出始めてフォーク系の友人も出来てペーパーナイフでの活動を始めてから修子はまた大きなコンサートの企画をした

そのタイトルは「国立第七養老院」あえて「敬老の日」を選んで開催した

それは修子が脚本を書き音楽と演劇を合体させた形のものだった 会場は虎ノ門の「ニッショウホール(日本消防会館)」

コンサートにかかる経費はまだ修子とつながりのあった事務所ジュダスが出し劇団「黒テント」から「斉藤晴彦(注)」を演出家として雇い、黒テントの役者も何人か参加した

注;「斉藤晴彦」1940年(昭15)7月30日、東京生まれ。早大卒。「劇団青俳」「発見の会」に所属後、劇団「黒テント」の創立メンバーに。代表作は「放浪記」の菊田一夫役や、ミュージカル「レ・ミゼラブル」のテナルディエ役など。舞台以外にもドラマ、映画でも活躍した。1986年にKDD(現・KDDI)のCM内でクラシックの楽曲の替え歌を披露して注目を集めた 2014年 死亡

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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