仲田修子話 131

それから数日してあの青年から電話がかかってきた

「もしもし、ケンちゃんです あの・・・今度はツッパリングいつやるんですか?」

おやおや・・・と修子は思った なんだ、楽しかったのか! あのツッパリングは1度きり・・・そう思ってたのだが彼のために又やることにした

そしてその予定の日、彼はやってきた その姿を見て修子はちょっと驚いた

ちょっとツッパリとは路線がズレてたが、どこで手に入れたのか彼はカンフーのようなチャイナ服を着て来たのだ

「この子かなりぶっ飛んでいる」そう思い修子はこの青年も自分達の仲間に入れることにした その青年・・・ それがその後もずうっと修子のバンドメンバーとして、後に修子らが設立した会社で様々な事務的仕事も担当して今では重要な役割を担う

瀬山研二だったのである

ちなみに第1回目のツッパリングには瀬山のほかに修子の友人でピアノの弾き語りをしていたAという人物も居て、彼もまたこの遊びがすっかり気に入ってしまい「またやろうよ!」とせがまれて結局ツッパリングは3回ぐらいは行われることになった

こういった遊びも含めて北沢のアパートは「何かありそうだ」という期待を持った若者たちしょっちゅう集まって来ていた

ところで仲田修子とペーパーナイフの音楽活動のほうはどうだったのだろう

実は修子たちが「ぐゎらん堂」に出てた頃、そこで知り合った一人の人物が居た

彼は自身もミュージシャンだったが、当時は次第にプロデユースの仕事に手をつけ始めていた 名前は「M」としておこう そのMから修子にある仕事の依頼が来た

それは池袋にあるデパートの屋上にあるビアガーデンを使って昼間、野外ライブをやってほしいということだった バンドで演奏して1回のギャラが5万円という条件だった

悪くない話だったので修子たちはそのオファーを受けることにした 大体月に1回というペースで・・・まあいい雰囲気で開かれていたイベントだったが、ある日突然打ち切りになってしまった

その原因はMの友人でそのデパートの社員で、そのイベントを企画していた担当者が、なんと出演者に払うべきギャラを着服していたことが明るみになったため 幸い修子たちはそういう目に遭っては居なかったのだが、ほかの出演者たちは誰も一銭ももらっていなかったという

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

出演するには?

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする