仲田修子話 150

70年代の終り近くに「第一次バンドブーム」というのが起きた

前にも書いた「サザンオールスターズ」や「世良正則とツイスト」などというバンドが次々にヒットチャートのトップを飾り、一時は低滞していた「RCサクセション」がフォークバンドからロックバンドへとスタイルを変えブレイクしていた

音楽の世界では1970年代後半 ~1980年代前半にかけて、ヤマハの主催で開催されたコンテスト「イーストウエスト」「8・8ロックデイ」「ポプコン」などがバンドの登竜門的な役割を果たしていた

メディアに頼らずライブハウスでの活動からメジャー・デビューするバンドも目立つようになり、80年代に入り音楽誌で多く取り上げられるようになるなど、市場に新しい勢力を確立していった

アマチュアのバンドでも、うまくすれば一気にスターになれる可能性が出てきた・・・もちろんそう成れるのはごく一握りの者たちだったのだが「俺たちもなれるかも・・・」

という思いがそれまで受け手一方だった若者たちの心に火をつけた あちこちに「バンドやろうぜ」という空気が出来上がっていた・・・

そのまさにスタート地点に修子たちの「大久保スタジオ」が居たのだ

そして大手の音楽産業はまだこの動きにあまり注目していなかったのだ

かつて「貸しレコード(注)」という商売が大学生の数人で始めた店から広がり・・・そしてそれがブームを生むと今度は大手がその業種に参入してきて利益をかっさらってゆく・・・

「大手が気が付く前にやってしまえ!」

修子はその先のこともちゃんと読み込んでいたのだ

大久保スタジオが出来てわずか1年後くらいに今度は山の手線の「大塚駅」のすぐ近くに2つめのスタジオを作ることにした

今度は雑居ビルのワンフロアーすべてを使い大小2ルームのそれもレコーディング設備も付いた「オレンジスタジオ」をオープンしたのだ

効率を考え「大久保」のほうはクローズし、後に「オレンジスタジオ」は下の階にあった「SMクラブ」が廃業して出たあと(最初にやった作業はその店が残していった天井にくっ付いていた”滑車”を取り除くことだった)も借りてさらに3ルームを増やした

オレンジスタジオのロビーはバンドをやる若者たちでいつも賑わって、まるで「コミュニティーセンター」のようになっていた

注;「貸しレコード」 まだCDが出てくる前、主にLPレコードを貸し出す「貸しレコード屋」というものがあった このきっかけを作ったのが成蹊大学の経済学部に通っていた数名の学生たちで、JR中央線の三鷹駅の近くで「麗紅堂 」という名前で1店舗でスタートした するとこれが大当たりですごい需要が出来た やがて大手がそれに目をつけ「友&愛」などのチエーンや現在の「TUTAYA」などがどんどん参入し「麗紅堂 」はその後経営が悪化し倒産した

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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