僕の吉祥寺昔話  10

「タカシ、お風呂沸かしておくれ」「はーい」・・・タカシは僕の本名だ

小学校当時僕の家では風呂を沸かすのは僕の役目になっていた

返事をして僕は靴を履き家の外に出る 裏側に回り風呂の「焚き口」にやってくる

昭和30年代、一般家庭の風呂は今みたいな「自動給湯式」なんてのは想像力の外 薪で沸かすuntitledのだ 勝手口の横に焚き口がある そこは縦15センチ横30センチくらいの四角い鋳物で出来ていて同じく鋳物の扉が付いていた それを開けまずは下のほうに溜まっている前回の燃え残りの灰などを搔き出す 搔き出した灰は庭の植木の根元に撒く 小さいがその当時はまだ庭があった そこにはイチジク、梨の木などが確かあったと思う

さて、空になった焚き口にまず最初は古新聞を丸めて入れる その上に小さな木っ端、割り箸くわいの主に樹の枯れ枝などを重ねて乗せる そして新聞紙にマッチで火をつける メラメラと燃え上がった火が小枝にうまく移り小枝がパチパチと音を立てて勢い欲燃えてきたら今度は大き目の木材を入れてゆく あまり一気に沢山詰め込んではダメだ うまく空気の通り道を作りながら木材を積み重ねてゆくのだ このコツはキャンプファイアーや薪ストーブに火をつけるときも同じだ なれない人はやたら最初から大きな木をぎっしりと並べてしまい大抵は上手くいかない 大体「釜」自体が冷え切ってるとなかなか火は燃え盛らない 僕も最初の頃は散々失敗して・・・上手くいかないときはやたら煙ばかり出るので眼が痛くなるのだ・・・火吹き竹をやたらプープー吹いて煙を吸い込んでむせたり悲惨な思いもした だが、そのうちコツもつかんで「風呂を沸かすのはタカシが上手い」という父親の評価をちょっと誇らしげに思っていたものだ

それにしても昔の風呂沸かしはタイヘンだった 火を点けてから大体1時間くらい・・・ちょくちょく薪を足したり火加減湯加減を見ながら・・・けっこうタイヘンな労働だった でも、燃え上がる炎を見ているのが好きでこの仕事を僕は進んでやっていたなあ

その当時のお風呂はこんな形をしていた いわゆる「風呂オケ」という言葉の語源どおりそれはヒノdscf7913キを組んで作った「桶」だった 小判型をした桶の一方に焚口から熱を伝える部分がありそして煙突がその中央を貫通して上に伸びている

そして今の風呂には無くなったものがある それが「上がり湯」と呼ばれる装備で、これは桶の滝口側に小さな別の桶がくっついていて、ちょうど弁当箱の「おかず入れ」のような感じだった ここにも水を溜めておいて風呂を沸かすとこの部分も同じように沸く それでこれは何のためにあったのかと言うと、当時の風呂にはもちろんシャワーなんてものは無かった 風呂桶も一度に複数の人間が入るので当然そのお湯は垢などで次第に汚れてくる

079c714111c0f3497df8d0b20066d222身体を洗うのはそのお湯を汲んで使うわけだがたとえば髪の毛を洗う時はそういうお湯は使いたくない それに最後に風呂から出るときに身体にその垢の付いたお湯がまとわっているのも気持ちが悪い・・・そういうわけで洗髪や最後に風呂を出るときにそこから奇麗なお湯を汲んでザアッとかけて上がる・・・ということから「上がり湯」という名前が付いたのだ

しかし、こうやって自宅に風呂があるのはまだ少数派で多くの家庭では皆銭湯に通っていた 僕もたまに家の事情で風呂を沸かせないときは銭湯に通っていた まだ貧しかったその頃の日本

アメリカの子供がバスケットボールやローラースケートで遊んでた同じ頃・・・吉祥寺では

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