その名は「スリーピー・ジョン・エステス Sleepy John Estes」
1904年テネシー州で生まれる 子供の時に野球をやっていて右目を負傷して視力を失うが、音楽が好きだった彼に父親は、彼が12歳の時にギターを買い与える やがて昼は百姓をして、夜や休日にはハウス・パーティやピクニックなどで演奏し稼ぐように1928年にメンフィスに移り、友人のハミー・ニクソンと組んで街角やパーティやクラブで演奏 1929年にビクターのタレント・スカウトに認められて吹き込み その後、好不況の波に左右され百姓に戻ったりしながら吹き込みをしていたが、1941年のブルーバードでの録音を最後に音楽業界から姿を消す
1962年になって、ブルース愛好家のデヴィッド・ブルメンソールが、ブラウンズビル近郊の掘立て小屋で両眼を失明したエステスを発見 小屋には電気も水道も来ておらず、5人の子供を抱え、若い妻が時々する賃仕事の収入と政府からの生活保護だけで、やっと生きている状態だった さっそくシカゴのデルマークで制作されたアルバムが「スリーピー・ジョン・エステスの伝説」かっての張りのある声はしわがれて、少し甲高い声は重く、より深く響いて来る(以上ラジカル・ビスケットより抜粋)
・・・と、どうですか?もうこのプロフィールだけで涙無くしては読めない・・・かな?
ただ、当時あまりにもこの”悲劇の主人公”という扱いばかりが表に出ていてその前後でも「再発見されたブルースマン」というと貧困と老いた暮らしの中に居る可哀相な人・・・というイメージばかりが強調されてしまったように思えます
確かにスリーピー・ジョンの声はなんとも悲しげに聞こえますが、実は彼が戦前メンフィスでやっていた音楽はかなりアップテンポでダンサブルな曲が多かったのです
ライ・クーダーはこのエスティスのスタイルが気にいっててアルバム「Boomers Story」の中で彼の持ち歌「Ax Sweet Mama」をカバーしています
戦前のエスティスの歌声を聞いてもあの再発見後のしわがれ声はそんなに違っては聞こえません 彼のもともとの声質がそもそもしわがれてて悲しげだった・・・それが戦後になって妙な解釈をされてしまったのじゃないかと思いますね この写真は冒頭に見てもらったレコードジャケットの写真を拡大したものですが、なんとも悲しげな表情と並んで当時話題になったのがこのギターに付けてある「カポ」なんですが・・・鉛筆をヒモで縛ってあります こういったところが彼をさらに”悲劇のブルースマン”らしくさせてしまったのでしょうが、本当の悲劇は別のところにありました その話は後半にすることにしますが
とにかく私はこの人の演奏を聴いてすっかりファンになってしまい、彼のソロアルバムを探すことにしました
高円寺ライブハウス ペンギンハウス