僕の吉祥寺話 1

これからお伝えするこの話は僕ジミー矢島によって2014年の正月からスタートした連載です

今またここに発表することにしまして、当時の文章はほとんどそのままにしますが若干の訂正や追加も入れてまたレイアウトを変えたり新しい写真や動画も入れていこうと思います それでは スタートします

吉祥寺・・・高円寺からJRでわずか4つ目の駅、そして僕が生まれた街だ だけど僕は滅多なことでは、よほど用事があるとき以外に吉祥寺に行く事はほとんどない

ちょっと前のアンケートでは「日本で一番住みたい街」という結果が出たらしいが(その後2016年の調査で恵比寿に抜かれて2位に転落したらしい)・・・正直僕はこの街が”苦手”いやもっとはっきり言えば嫌いなのだ それには色々な訳もあるのだが

1952年12月、僕は武蔵野市に在るある病院で生まれた・・・らしい もちろん本人には記憶があるわけない 僕の親父が死んだときに戸籍を調べたら僕の両親が「入籍」したのがその年の8月・・・てことは「できちゃった婚!?」ははは

僕が小さい頃、家の周りの風景は今の吉祥寺とはまるで違っていた あちこちに畑があったし、うっそうとした林や藪があちこちに 家のすぐ裏が地主で、さすがに茅葺ではなかったが典型的な農家の佇まい、家の軒下には農具がぶらさがっていて近所の畑には「肥溜め」もあった

道はほとんどが砂利道で夜になると街灯もほとんどなく外は暗くてけっこう恐ろしかった

・・・で、吉祥寺の街はってえと当時中央線はまだ高架になってなくて吉祥寺駅もまだ木造のくたびれたような建物 接続する「井の頭線」へは階段を登って降りて・・・という今では地方の駅で見られるような風景だった もちろんアーケードなんてなくって今「サンロード」と呼ばれてる駅前の商店街が当時はバス通りで狭い道をバスが通っていてしかも舗装路じゃなかったので雨の日なんかはあちこちに水溜りができてバスが跳ね上げた泥水を避けながら歩く・・・もちろん歩道なんかなかったのだ

駅前には八百屋、魚屋、果物屋、総菜屋、洋品店などがならびお洒落な店なんてほとんどない 勿論PARCOなんてなかったしデパートもなかった 不思議なことに北口のすぐ前に広がる「ハモニカ横丁」だけは当時からほとんど変わっていない ただ、だいぶ後になって知ったのだがこれらの2~3坪くらいの小さな店には大体「二階」があって梯子で上れるようになってるのだがそれがかつての「青線」の名残なんだそうだ

そういえば映画「三丁目の夕陽」を見ていてギモンに思うのがあれだけ当時の日本の東京の風景や生活をリアルに再現しているのになぜか「乞食」と「傷痍軍人」が一切出てこない これって戦後史の”ダークサイド”になるからなのかなあ・・・当時僕が少年の頃街に出ると必ずこれらの人々が居た 「お乞食さん」と言われていた人々が街の角に座っていたりまた真っ白な軍服を着て脚や腕に義足義手をつけたあるいは盲目の元軍人らしき人たちがアコーディオンやハーモニカを鳴らしながら「ここは~お国を何百里~~♪」と軍歌を歌っては施しを受けている風景は日常の中にごく普通にあった

とにかく当時の吉祥寺はうらぶれて埃っぽくて垢抜けなくてわびしくてそのくせ妙にパワフルな街だった

街の話から僕の周りの話に変えよう 実家は小さな電気店をやっていた 最初のうちは店にテレビや洗濯機、冷蔵庫などを置いていわゆる「家電店」として営業していたのだが当時はしょっちゅう泥棒に入られた 夜中のうちにドアを破って一切合財持っていってしまう・・・こういう被害が3~4度あってからは家電販売を止めて電気工事だけに商売変えした 家の正面は税務署その隣が小学校だった 家が学校の目の前だったので朝のチャイムが鳴ってから家を出てもなんとか間に合う・・・というわけで僕は”遅刻の常習犯”だった

学年は3クラス 1クラスが30人ぐらい 僕の年代はちょうど戦後のベビーブームが終わった直後だったのでまあまあのんびりした人数だった ただ、その小学校に通う児童たちには本当に色々な家庭環境があった 僕の家から中央線の線路を渡ってすぐ先に大きな木造二階建ての建物が三棟ほど並んだ団地のような場所があった そこは「引き揚げ者寮」と呼ばれていて当時の僕にはその意味がよくわからなかったのだが、あとでいわゆる満州など大陸から終戦後引き揚げてきて家の無い人々を収容していた施設だということを知った その建物は本当に粗末なもので、中に入ると薄暗く汚れていてなんとも言えない独特の臭いがした

廊下には共同の水場やトイレや調理場などがあり、それぞれの部屋は大体一世帯あたり10畳くらいの広さの中に三世代・・・6~7人が暮らしているというような状況だった(右写真は違う建物だがほぼこんな感じだった) そこから僕と同じ小学校に通う児童もいて僕の同級生にヨネモトという子がいた 彼はいつもツギのあたったような粗末な服を着ていて髪はボサボサ・・・内気で大人しい子だった 当時の小学校には月々の給食費が払えない子や「家の事情」で遠足に参加できない子なども何人かは必ずいた そうかと思えばそのまったく逆もあって、同じ同級生で家の門から玄関まで数10メートルはある、部屋数がいくつあるのかわからないぐらいのお屋敷に住んでいて帰りはいつも「お手伝いさん」が迎えに来る・・・そんな家庭の子供もいた

その頃から僕は「世の中はなんて不公平なんだろう」と思っていて、図書館で借りて読んだオスカー・ワイルドの「幸福の王子」という本を読んで泣いたりしていたのだが・・・そんな環境のあった吉祥寺にはいい思い出がほとんどなかった

そんな少年時代を過ごしていた僕の周りはあの「東京オリンピック」あたりを境に劇的に変化しはじめる その話は・・・続く

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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