さて、ギターを手にしてからの僕の日常生活はがらっと変わってしまった それまでは運動部の部活に明け暮れる毎日だった高校生が3年になりクラブ活動も「引退」し、学校が終り家に帰り部屋に戻るとすぐさまギターに飛びつく・・・そんな日々になった
当時、徐々に「カレッジフォーク」なる軟弱なやつら(マイク真木の「バラが咲いた」などね)を押しのけて妙に泥臭くて妙にいかがわしい「関西フォーク」なるものが(最初は「アングラフォーク」と呼ばれてたけど)前回も触れた「フォーククルセダーズ」のブレイクをきっかけに音楽シーン(そんな言葉は当時はなかったが)に侵食しはじめていた
岡林信康の「山谷ブルース」が普通にテレビなどでも流されていた記憶がある
世の中も当然そういう流れが強かった 東京大学の安田講堂事件、新宿騒乱事件、成田闘争、新宿西口フォークゲリラ・・・などなど 社会は大きな変革を求められているようなムードに染められていた・・・でも・・・あとで振り返ってみるとそれは「70年安保闘争」あたりをピークに盛り上がっていた「学生運動」の終焉の予告みたいなものでそのわずか一年後ぐらいにすべてのことが嘘みたいに下火になり収縮あるいは消滅してしまったのだが・・・
ところで、当時の吉祥寺の町はどうだったんだろう
思えばあの頃、「高度経済成長」まっしぐらな日本全土のムードは当然吉祥寺という街を変貌させるには有り余るくらいのエネルギーに満ち溢れていた
まず駅前のバス通りに手が加えられた 舗装の車道・・・ではなく石畳の歩行者専用道路、その頭上には駅前から五日市街道にかけての数百メートルにわたって巨大なアーケードがかけられた
名前も「サンロード」というなんだかお洒落な名前になり、当時日本中でもそういったアーケード街は珍しかったので全国から見学や視察に訪れる人や団体が多かった
あの「名店会館」が取り壊されそのあとに巨大なビル・・・東急デパートが建てられたころから吉祥寺の町の”匂い”が変わってきたことにどれだけの人々が気がついていたのだろう
そんな東急デパートが見渡せる位置にある小さな3階立てのビルの最上階に一軒の「お店」がオープンを迎えようとしていた その店がその後僕の人生をまったく変えてしまうきっかけになろうとは・・・その頃僕は自宅の自分の部屋の横にあった物干し場に座りギターを弾きながら下手くそな歌を歌っていた 「今日の~仕事は辛かった~♪」
それを下の階で聞いた母が階段を上がってくるとこう怒鳴った
「そんな変な歌歌うのヤメなさい!ご近所の手前みっともない!」
続く
高円寺ライブハウス ペンギンハウス