僕の吉祥寺話 12

さて・・・武蔵野タンポポ団だが、この名前の由来から説明しよう

中心メンバーのシバがその当時ものすごく貧乏をしていて食料も買えず、ついには道端の野草などを採ってきてそれを料理して食べていた・・・特にタンポポが中心に・・・というエピソードがバンド名の由来となっている

彼らのやっていたスタイルは「ジャグバンド」と言われるもので、元は1920年代ごろを中心にアメリカ南部の黒人たちの中のちゃんとした楽器を持たない、というよりは持てない貧しい連中が洗濯板やタライそれに大きなビンなどを使って気ままに演奏するスタイルとして広まっていたもので、むこうでは「メンフィス・ジャグバンド」「キャノンズ・ジャグ・ストンパー」などが有名だが・・・そういうわけでこの日本初(?)のジャグバンドも当初のメンバーは固定せず、と言うよりその日にぐゎらん堂に居た誰でも参加することが出来る・・・そういう”ゆるい”体制だったのだ

だから楽器もギターやベース、マンドリン、ブルースハープなどというちゃんとした楽器だけでなく空き瓶を使ったジャグやタバコのビニールカバーなどを使ったカズー、スプーンを2本打ち合わせてカスタネットのように鳴らしたり・・・とまさに「ジャグバンド」スタイルだったのだ

だが、やがてこのバンドの評判が広まりあちこちで演奏するようになると自然に”ちゃんと演奏の出来るメンバー”だけに絞られていわゆる「素人」は除外されてゆくようになってきた

当時のメンバーは「シバ」「高田渡」「若林純夫(通称ウディー)」「村瀬雅巳(春樹氏の弟)」「山本コータロー」が中心でそこにイレギュラーで「友部正人」「中川イサト」「岩井宏」などが加わったりしていたが、のちに大きくメンバーチェンジを迎えることになるが、ここらへんの話には色々な状況が加わるのでもう少しあとで話す

とにかくこのバンドの影響力は当時すさまじく、そのすぐあとから全国のあちこちで「○○ナントカ団」などというようなユニットがそれこそ雨後の筍のように出現したことを見てもわかる


そして、世の中はなんとなく「シラケ時代」に突入し日本中がなんともいえない倦怠感とあきらめや無力感に囚われていた頃・・・若者たちも当然そうだったわけで「社会をなんとかしよう」という考えよりも「今生きてる自分はなんなんだ」・・・そういう問いかけを自分自身に向ける

生み出されるものも当然そういったものを反映し「個人的なこと」に向かってゆく

そういう方向性をもって生み出されていたた曲を世間はカンタンにひとつの言葉で切って捨てた

「四畳半フォーク」・・・と まあ外れてもいなかったわけだけどね(笑)

そしてその「四畳半フォーク」の代表みたいに取り上げられていたシバとは・・・どんな人だったのかというと・・・

続く

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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