僕の吉祥寺話 20

いつごろからなんだろう 吉祥寺が「若者の街」と呼ばれるようになったのは

今は何て呼ばれているのかは知らないが「若者の街」という名称はちょっとばかり誇らしげなニュアンスを持って付けられていような気がする

とは言っても物理的に確かに吉祥寺は若者の街ではあった それにはちゃんとした理由があって、まず学校の数が多い 大学では「成蹊」「東京女子」「亜細亜」など高校の数となると把握しきれないほど、中央線と井之頭線が合流しバスの路線も多い吉祥寺には必然的に学生たちが多くやってくる・・・それに加えて70年代初期の吉祥寺には「何かある」と思わせるようなものが潜んでいたようで、そういうものが地方から若者たちを引き寄せる「引力」になっていたのだと思う

だから70年代ごろから吉祥寺にはそういった若い人たちに人気のあるお店が徐々に増えてきていた

そのほとんどは個人経営、まだ大手のデパートとかが入ってくる前の街にはそういう環境があったのだ

その当時どんな店があったのか・・・なかなか思い出せないなかで色々調べていくうちにある言葉に辿り着いた それは「ロック喫茶」という名称だ

いまでもこの名称が”現役”なのかは知らないが、そういえば「ぐゎらん堂」も最初は「ライブハウス」ではなく「ロック喫茶」というカテゴリーで括られていたことを思い出した

そして当時の吉祥寺には何件かのロック喫茶があった 「赤毛とそばかす」「OZ」「be bop」・・・あとは思い出せない(笑) ジャズ系だと「ファンキー」「メグ」なんかね

とにかくそれらのお店に共通していたのはどちらかというと敷居が高くて入り辛い、暗い、恐い・・・「入れるもんなら入ってみやがれ」的な突っ張ったところがあったということだ

当時の日本は決して若者に優しくなかった・・・と言うより厳しかった 「若者文化」というものがまだ社会ではマイノリティーで”若い奴ら”といえば金もないくせに偉そうに理屈だけはこねる 気に入らないことがあるとすぐにゲバ棒を持って暴れる、不潔でダサい・・・それが社会が持っていた大方のイメージだったと思う

だから若者たちは自分達の望むものは誰が何と言おうと全部自分達で作り出す・・・そういう気概がすごくあったと思う その当時のそれらのお店はそういう若い店主たちの思いを詰め込んだ「砦」みたいなものだったんだと思う 外から見るとずいぶんと排他的なんだが中に入ると居心地がいい・・・傷ついた若者たちの心を慰める「駆け込み寺」的なものがそれらのどの店にもあったのだと思う (右写真は当時のロック系の聖地「OZ」 僕には限りなくドラッグやハッパなどのイメージがあってヤバそうで恐くて行けなかった店)

今でも吉祥寺の裏町へ入ればそういうポリシーを持ってガンコに頑張っている店が見つかるかもしれない ただ、今の吉祥寺はそういうものが生きてゆくには過酷な街になってしまったようだ

その最大の理由が「家賃の高さ」だろう もはや表のメインストリートでは個人がお店を営業するには無理なくらいの膨大な経費がかかる 今の吉祥寺のたとえば「サンロード」を歩いてみればわかる あるのはほとんどが大手の「フランチャイズ」「チェーン」それもつまらないものばかりだ

あの70年代に吉祥寺を一番輝かせていたマイノリティーなものがもうそこでは生きてゆける余地がほとんど無くなった・・・それが今の吉祥寺なんだと思う

一番最初(第一話)に僕が「吉祥寺が嫌い」と言ったことの理由のひとつがここにある

まあ、いまさらそんなことを嘆いても仕方ない 次回からはそんな昔の吉祥寺にあって僕がお気に入りだった場所を紹介してみようかな

続く

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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