さて、今日のブルースマンは知ってる人いるのかなあ
ロバート・ピート・ウィリアムズ(Robert Pete Williams)
シンガー/ギタリスト。戦後カントリー・ブルース。1914年ルイジアナ州ザチャリー生まれで、80年同州ローズデイルで死去。50年代中頃に酒場でのケンカに巻き込まれて、襲いかかってきた男を殺し、終身刑を受けてルイジアナ州のアンゴラ刑務所に入獄。ルイジアナ大学の民族学者ハリー・オスカーに発見されて、オスカーの嘆願により減刑されて仮出獄。59年から61年録音の<Free Again>で、芯のある力強い歌を聞ける。60年代は各地のフェスティヴァルに参加
ロバートピートウィリアムス (3 月14 日 1914 年 – 12 月31 日 1980 年) あった アメリカ 青 音楽家、 Lousiana で基づかせている。 彼の音楽は特質上独創的な青のtunings および構造を用いる、 そして彼の歌は彼が刑務所で役立った時間について頻繁にある。 彼の歌”私が育てた従って” 醜い覆われた Beefheart 大尉、 彼のアルバム ミルクとして金庫 (1967 年) 、 そして 黒のキー、 ゴム製工場 (2004 年) 。
ウィリアムスは生まれた Zachary、 ルイジアナ に sharecropping 親、 そしてのまわりに住まれていて バトン・ルージュ 彼の生命中の区域。 彼は発見された アンゴラ 刑務所、 ethnomusicologists Dr ハリーOster 及びリチャードアレンによって、 彼が1956 年にローカルクラブの撃つ人の死者のための終身刑に役立っていたところ、 彼が要求した行為は自衛にあった。 Oster 及びアレンは刑務所で生命についての彼の歌の複数を行っているウィリアムスを記録し、彼のためにあるためにpardonned 弁護した。 許しは1959 年に部分的に許可された、 ウィリアムスが解放された時、 彼が完全な許し1964 年を受け取ったまで彼がLousiana を残すことができなかったが。 この時間までに、 ウィリアムスの音楽はある好ましい口伝えの検討を達成した、 そして彼はその年にルイジアナ国外の彼の最初コンサートをした ニューポートの人々の祝祭。 ウィリアムスは米国を旅行することを継続した そしていくつかのショーとの遊ばれる ミシシッピーフレッドMcDowell。 彼は彼の健康が低下し始めた70年代後期にコンサート及び祝祭をし続けた。 ウィリアムスは死んだ Rosedale、 12 月31 日にルイジアナ、 1980 年、 66 歳で。
下段の解説はどうも「自動翻訳」のものらしく何言ってんのかさっぱりわからない所も多々あるが・・・「青 音楽家」というのは「Blues Musician」のことだろうね(笑)
まあ、それだけ無名に近かったブルースマンということなんだろう
僕が彼の演奏を初めて聴いたのは実に僕にとって「生まれて初めて聴いた」レコード「ブルース・ア
ト・ニューポート1964」というオムニバス盤に「ミシシッピ・ジョン・ハート」「スキップ・ジェイムス」「スリーピー・ジョン・エスティス」などに混ざって彼の演奏が入っていたのだ
とにかくその時まだブルースというものがよくわからなかった僕だったのだが「これは只者じゃない!」と鋭く感じたわけで おまけにその解説に「彼は殺人罪で刑務所に入っていたところを発見された」というプロフィールにも刺激を受け、さっそくその刑務所時代の録音が入っている
「アンゴラ・プリゾナース・ブルース」を手に入れて聴いたのだ
そのインパクトも凄かったが、とにかく彼のスタイルには「ブルース以前」を思わせるような強烈な原始的なパワーと泥臭さがあってしばらく僕はこの人のスタイルにハマってしまったのだ これだけ泥臭いまんまの人がよく「戦後」まで居たものだ 南部恐るべし!
とても雰囲気が出ているドキュメントっぽいこの動画をごらん下さい
高円寺ライブハウス ペンギンハウス