僕のブルースマン列伝 30

さあ、今回を入れてあと二回になったこのシリーズ 今日は・・・

僕は今まで生で観ておいて本当によかったと思うライブが2つあるひばり

そのひとつは「新宿こま劇場」で観た 美空ひばり・・・誘われて行く前はそれほど関心もなかったのだが・・・もう観たあとはそのすごさに本当に感動したのだ! まあ、この話はいずれするとして

もう一つ、もう一人・・・それはブルースマンの中でも一段と大きな輝きを持っていた不世出のブルースマン

ライトニン・ホプキンス Lightnin’ Hopkins  だ!ホプキ

1912年3月15日1982年1月30日)はアメリカブルースミュージシャン。本名はサム・ジョン・ホプキンスSam John Hopkins)。

1912年テキサス州センターヴィル生まれ。少年時代の1922年に、ブラインド・レモン・ジェファーソンに出会いギターを教わる。1927年にはいとこであるテキサス・アレクサンダーと共に テキサスにあるレインボー・シアターで演奏する。 レコードデビュー当時、よくコンビで演奏をしていたピアニストサンダー・スミスのサンダー(雷)にちなんで自らをライトニン(稲妻)と名乗るようになる。
黒いサングラスに葉巻をくわえたスタイルで演奏し、アメリカン・フォーク・ブルース・フェステイバルに出演したり、マンス・リプスカムと共演したりした。

初録音は1946年で、1959年に白人により再発見され、ようやく世界にその「ライトニン節」を轟かせる事になる。 アラジン・レコードから初のシングル「Katie Mae Blues」をリリースし、ヒットを記録。 その後もR&Bチャートにランク・インするような曲を次々にリリースし、50年頃は「ハロー・セントラル」がビルボードにチャートインするほど大変な人気ぶりで、カントリー・ブルース界でも極めて稀な存在となり、戦争を題材にした歌などもリリースする。

1930年代は放浪していることが多くヒューストンに移り住んだ後、ジューク・ジョイントで演奏やストリートでブルースを歌っていた。

ケンカが原因で、刑務所送りになったという辛い過去がある。 従事した仕事は架橋工事で、宿舎では寝る時も足を鎖で繋がれ、翌朝の食事の時に外されるなど、過酷な労働・生活が続いた。 彼の音楽には人生観がにじみ出て、ある種の安らぎ、人生の哀切や達観、希望が満ち溢れた音に、多くの人々が魅了されていった。

ライブではアメリカ各地の大学・ヨーロッパ等、どこも超満員だった。 語彙が豊富で、頭の回転の早い彼による心の奥底を探るような歌詞は、彼自身の気分によって抱腹絶倒の内容になることも、痛ましく荒涼とした内容になることもあった。彼はその場の雰囲気に合わせて即興で歌詞を作ってしまうことでも有名で、そのためライヴ・レコーディングでは、しばしば予想を超える内容になる等、エピソードには事欠かない。

1960年代の後半、ライトニンのホームタウンであるテキサス州ヒューストンで撮られたドキュメンタリー・フィルム『ライトニン・ホプキンスのブルース人生』には、飾らない素顔や生活ぶりが記録されている。

生涯に百枚以上のアルバムをリリースしていると言われ、現在もブルース・ファンに人気の高いギタリストである。ブルースの歴史を研究する上で、欠かす事の出来ない存在である。

代表作は、『アラジン・レコーディングス』(1946-1948) 『ライトニン・ホプキンス』(1959) 『モジョ・ハンド』(1960) 『ライトニン・ストライクス』(1962) 『テキサス・ブルースマン』(1962)など多数。

1978年に最初で最後の日本公演を行っている。 1982年により死亡。 以上「Wikipedia」より

そう、この1978年の最初で最後の日本公演を僕は中野サンプラザに観に行ったのだ

ライトニンが日本に来る・・・こんな凄いことが本当に実現するとは・・・飛行機が大嫌いな彼を海を越えて日本にまで連れてくるのは本当に大変だったそうだ 何度も「俺はやっぱり行かない」とゴネるのを必死になだめて何とか連れてきたそうだ

さて、78年というと日本での一時的なブルースブームもすっかり下火になっていて、この時のサンプラザも一階席がまあまあ埋まるという程度(3年前の日比谷は満席だったのに)だった

この日はライトニンの前に前座が出た 前座と言うのはちょっとかわいそうな気もするが・・・「フォークブルース」ファンの間で60年代には絶大な人気を博した二人組み ブラウニー・マギー&サニー・テリーである この名前としてはあまりにビッグな二人なんだが、前回のビッグ・ジョー・ウィリアムス同様すでに過去のものとなった芸能をまだ聴き手がいるということでなんとか続けている年老いた芸人の域を出ていなかったマギー

ただ、最初に紹介されて二人が出てくるときブラウニーは大きく片足を引きずりながら、サニーはスタッフに手を引かれながら登場した サニー・テリーが盲目なのは先刻ご承知だったが、ブラウニー・マギーが小児マヒだというのはなんとなく知ってたが様子ではかなり重症のよう

そういえば昔のアメリカ南部の黒人のうち身体に障害のあったものはミュージシャンか芸人になるくらいしか生きるすべがなかった・・・そんなエピソードを聞いたことがあるが彼らはまさにそういう人たちだったのだね

彼等がなぜライトニンのオープニングアクトに選ばれたか・・・僕の想像だがそれは確か60年代にファースト発表されたアルバム「FIRST MEETING OF BLUSS GIANTS」があったからじゃないかな

このアルバムにはライトニン、ブラウニー&サニーそしてビッグ・ジョーウィリアムスが参加して4人でセッション的に演奏しているのだが、この中でライトニンとブラウニーが即興で掛けあいをする曲があってそれがものすごくスリリングで当時はまだ絶好調だった両者の気迫とプレイが武術の果し合いのようで面白かった もしかすると彼らを呼んだ主催者側はそういうのを期待していたのかも知れなかった

しかし、年月と老化というものは残酷だ 年老いてすっかり往年の輝きを失った二人 それにお互いが実はすごく仲が悪い・・・そういうことも影響していたのかも知れない この二人の演奏を観ていて「大丈夫だろうか・・・」 と肝心のライトニンの演奏まで不安の暗雲が客席にいた僕らを覆いはじめた

そしてしばらくのインターバルを挟んでいよいよ御大の登場だ まずバックアップメンバーがステージに立つ・・・おや、僕らはちょっとした違和感を感じた ドラムは黒人だがベースはアジア系・・・たぶん日本人・・・それもなんだかブルースとは縁のなさそうなロン毛の若者・・・ちょっと不安がよぎる

そしてMCの紹介・・・「ラ~イトニン・ホプキ~ンス!」とか言っただろうか

その声にあわせてステージ上手からライトニンが登場する

その瞬間に僕らは一撃でやられてしまった

ものすごいオーラというか”気”が彼の身体から吹き上がっていた ただならぬ存在感・・・す、すごい!

その格好だが、オレンジ色のスーツその胸元にはスパンコールがキラキラ光ってる 両手晩年のほぼすべての指には大きな指輪が・・・そしておなじみのサングラスをかけてステージ中央までスタスタと軽い足取りで進みマイクに向かいニヤっと笑う うわ~!ライトニンだ あのビデオでも散々みていた不適な笑い そして印象的なあのだみ声で一言二言なにか喋るといきなりギターを「ンジャッ!」と弾き曲が始まる おお!いきなり「モジョハンド」ライトニンのおはこ中のオハコだあ!

もうもう僕はその場に自分がいるだけで幸福な気分になっていた あの伝説は本当だった ダウンホームブルースマンの中でも抜きん出て泥臭くて魅力的な「ザ・ブルースマン」ライトニン・ホプキンスは本当に凄かったのだ

演奏中もたとえば照明の光をギターに反射させて客席に向けたり、観客の女性(外国人だった)をCCF20140429_00000ちょっとエッチなジョークでからかったり(多分)客席とのコールアンドレスポンスを本当にすごく大事にしているのがよくわかる

わりと新しい当時のダンスナンバーをやったりとまだまだ色気を失ってない貪欲なおっさんの面をたくさん見せてくれた

急きょ集められたらしいバックはヒドかったがそれでもライトニンの凄さはそんなものでほとんど薄められることはなかった

さすがに66歳という年齢はあの若かった頃のドギツく光るようなブラックネスにやや艶が無くなったような感じは少しはあったが、それでもまだまだ輝き続けるため「燃料」はたっぷりあるように思った そういえば亡くなった高田渡が言ってたのを思い出した「ライトニンっていつも着てるものがお洒落なんだよな、あれっていつも”女”がまわりにいたんだと思うよ・・・」って

そのわずか4年後に亡くなってしまった彼の演奏をもう二度と生では観ることはできないが、あれから36年も経った今でもそろそろ当時の彼の年齢に近付きつつあるかつてのブルースファン青年の記憶にはいまだに鮮明にあの姿が焼きついている

もう2度と・・・決して出てこない一人の素晴らしきブルースマンが

では最後に彼のごく初期の映像と 晩年の映像をごらん下さい


そして、ライトニンもやっていた「BABY PLEASE DON’T GO」 仲田修子バージョンです


いよいよ次回は 最終回・・・さて、誰が・・・

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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