僕の吉祥寺話 37

その当時・・・1973~77年ぐらいのあいだ・・・僕も色々な形で演奏活動をし続けていた

演奏の場が「ぐゎらん堂」だけでなくあちこちに出かけて歌うことも増えてきた

当時の正確な記録とか写真とか、今ではほとんど残ってないので詳しいことはなかなか話せないのだけど、当時は今みたいに携帯やスマホで気軽に写真が撮れる時代じゃなかったしましてやそれをどこかに発表するなんて、今みたいにネット社会に替わるものはまったくといっていいほど無かった

音楽関係のメディアとか出版界とかはすべてメジャーのほうばかり向いてて、近年は表に出てくるようになったような「インディーズ的」なものの存在なんて知りたくても知りえなかったのだCCF20140513_00001

今僕が手元に持ってる写真はわずか・・・3枚だけだ

そのうちの2枚をちょっとごらんいただこうか 最初はこれ⇒

いつの頃かはっきりしないが「ブルーグラス」のフェスティバルみたいなイベントにゲストで呼ばれて「ブルースシンガーのジミーさんです」とか紹介されてなんだか場違いな雰囲気の中で演奏したのを覚えてる 場所は「石神井公園」の野外ステージ 僕の横でギター弾いてるのは当時まだ10代だった「小林清」だ

もう1枚はこれだ⇒CCF20140513_00000

これは千葉県の野田市で開かれていたイベント・・・たしか「野田市民まつり」とかいうタイトルだったが、地元でアマチュア演劇をやってる集団に招かれてシバと一緒に行ったときのものだったと思う 写真の横に年号が記録されてる 73年の秋か冬だ 会場は芝居用に建てられたテントでその手作り感まとても素敵で居心地が良かったのを覚えてる この野田の皆さんはそれはパワフルでいい人たちばかりで、いつも行くと大歓迎してくれた ライブがえらく盛り上がって時間が押しまくってしまいシバと僕が帰りの電車に乗り遅れたら車を出してわざわざ吉祥寺まで片道2時間以上かけて送ってくれたこともあった

これはその後にも知ることになるのだが、当時日本の地方のあちこちにそういうエネルギーとポリシーと理想を持って活発に動いてる若者たちが多くいて、たとえば今でも伝説になっている「中津川フォークジャンボリー」ナカツだって最初は地元の数名の有志が中心になって動いた結果実現したんだということを僕はそれから30年以上経ったときに犬山市にある「ふう」というライブハウスに観に来てくれたその当時のメンバーのお一人から直接話を伺った

僕はほとんどを東京のそれも吉祥寺という狭いところばかり見ていたけれど、実はその当時マスコミやメディアがまったく注目していなかった地方やアンダーグラウンドで、色々なものが確実にすごいエネルギーで動いていたのは間違いない

そういえば、野田の皆さんは今はどうしているかなあ・・・駅に降り立つと醤油の匂いがしたあの街・・・いつかまた行ってみたいな

続く

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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