僕の吉祥寺話 45

さて、キャンディーマンが「空中分解」してしまったころ・・・僕が居た吉祥寺の音楽シーンにも変化が現れはじめていた

佐久間順平、大江田信、林ヒロシ、小林清、大庭珍太、アンさん・・・などなど新しい顔ぶれがぐゎチンタらん堂に次々と出現していた(右は現在の珍太&アンさん 昔はもちろん若かった)

そして日本の音楽シーンも徐々に柄を変えようとしていた

アコスティックギターを抱えぼろい服に無精ひげ・・・そういった連中は「かぐやひめ」の「神田川」のヒットをきっかけに一からげに「四畳半フォーク」と括られ、当時少しずつ高度成長が加速しつつあった日本のかぐやひめ社会は次第にそういうものを受け入れなくなってきていた

もう70年安保の古傷をいつまでもさすってるわけにもいかない そろそろ新しい価値観が欲しくなってきていたんだろう

日本人のほとんどが自分を「中流階級」と意識するようになり吉祥寺に「PARCO」ができるという噂がたち始めた頃だ 音楽の世界にも「新しい波」が立ち始めた

一人の女性歌手はそれまであまりなかった妙に日本離れしたお洒落な楽曲と演奏をひっさげてあらいゆみ登場し、あっというまにブームを引き起こした 黒い皮ジャンにリーゼントというインパクトあるスタイルで一気にR&Rヒーローになったバンドもいた

「荒井由美」や「キャロル」に立ち向かえるような音楽はもうその当時の吉祥寺にはなかった

あきらかに僕の周りの音楽を「稼ぎの場」としていた人々には厳しい状況がおとずれ始めていた

そんなある日だ 「ちょっと集まって欲しい」そういう声が吉祥寺で活動するミュージシャンたちにかけられたのだ 声をかけた中には当時吉祥寺で「芽瑠璃堂」というレコード店を経営する後藤氏などがいた 集合をかけられたミュージシャンたちがある場所に集まった

そこで出てきたのはこんな話だった

「吉祥寺を中心にして活動しているミュージシャンたちのために音楽事務所を立ち上げる 今までそれぞれがバラバラにやっていたマネージメントなどをそこで一括して引き受け、なるべく多くのミュージシャンへ仕事が行き渡るように活動をする」

それは願ってもなかった 何人かのミュージシャンがそれに賛同し参加というか「所属」することになった  事務所の名前は「マッチボックス」に決定された 井之頭公園のすぐ近くにマンションの一室を借りてそこを事務所とし、マネージメントを引き受けるために名古屋から「ヨシツグさん」という人がやってきた

高田渡は最初はここに参加するのを辞退したらしいが、周りから「あなたが表看板になるから」といgw-007-wataruうことでしぶしぶ引き受けたんだったと思う

僕は密かに期待した これで音楽の仕事をもらえる!・・・しかし事実はそう甘くなかった

当時キャンディーマンも解散してヒマだった僕はほとんど毎日のようにその事務所に通っていた 行っても何かすることがあるあけではない とにかくヒマだった 一日そこに居ても電話もほとんどかかってこない たまにかかって来ると大抵は「高田渡さんをお願いしたいのですが」というものだった あと時々ヨシツグさんあてに謎の電話がかかってきていた その電話が来るとヨシツグさんはその分厚いメガネの奥の目をちょっと曇らせて何か受け答えをしていた ある日、ちょうどヨシツグさんが何かの用事で外出していて僕が電話番をしているときだ 1本の電話がかかってきた

妙に重々しい声でその電話の向こうの人物はこう言った「ああ、ヨシツグさんは居られますか、ああ、居ない?そうですか 変わったことはありませんか?」そんな話をしてその相手は電話を切った しばらくしてヨシツグさんが帰ってきたので僕はさっきの電話のことを話した

「○○さんという人から電話がありましたけど」「そうか・・・」ヨシツグさんはちょっと困ったような顔をし、それからその相手のことを話してくれた

「その人は公安の刑事さんなんだよ、時々ああして僕の所在を確認するために電話してくるんだ」

「え?」

そしてヨシツグさんが話してくれたのはこういうことだった 前に彼は関西方面で活動していた過激派の活動員それもリーダークラスだったそうで、その時の色々あったことから今だに公安から監視されているんだということ 物静かで優しい彼にそういう面があったとは、僕らはびっくりしたのもだ

ところで、その当時僕と同じようにいつもその事務所に詰め掛けていたミュージシャンが何人かgw-004-jimmy & gaku居た 鳥井ガクは当時そのすぐ近くに住んでいたということもありほぼ毎日そこにきていた 他に佐久間シゲルというブルースギターを弾く若者が居た 僕らは揃って間違いなく「冷や飯組」だった(笑) 一度だけ都内の女子大の学園祭の仕事をもらったことがあったくらいで、そのほかはお声がかかることはまったくなかった そもそもなぜ毎日のようにそこに通いつめていたかといえば、もし「誰でもいいからよこして下さい」というような依頼があったら(まずなかったが)真っ先に自分を売り込んでやろうという下心があったからだ(笑)

一方、そういう僕らとはまったく違う事情をもってながらよくそこに来ていたのが坂本龍一だ

だから当時僕は彼とよく色々な話をしたものだ 僕がそこにおいてあるギターを抱えて弾いてたらラグタイムしばらくそれを聴いていてから彼が僕に尋ねた 「矢島くん、今弾いてた曲はなんていうスタイルなの?」 僕が答える「これはラグタイムっていうんだよ」「へーえ、でもラグタイムってたしか今みたいに3連譜は使わないんじゃないの?」

むむむ、さすがは音大野郎だ(笑)言うことが一々本質を突いてくる 僕はちょっとたじたじしながらこう答えた 「うん、そうなんだけど黒人音楽の中ではラグタイブもいブレイクわゆる4ビートで解釈されているんだよ」このジャンルについては僕も引き下がるわけにはいかない そして話題を逸らした

「坂本くん、君っていつも同じコートを着てるけどそれしか持ってないの」

ちょっと意地悪な質問をしてみた するとそれに対して平然とした顔で「そうだよ」・・・と

そして、それから数日後にやってきた彼はなんとラグタイムで曲を作ってきたと僕らの目の前でピOLYMPUS DIGITAL CAMERAアノを演奏してみせた

それは今まで聴いたことのないくらい美しく見事なラグタイムだった

「こいつ、やっぱりすごいわ!」もう僕らは完全に降伏した

その後、しばらくして姿を見せなくなった彼がある日テレビに映っていた お揃いのユニフォームを着た3人のミュージシャンの中の一人 そしてその音楽は今まで僕らがあまり耳にしたことのない妙に無機的な機械的な未来的な音だった・・・もう何のことかわかるよね(笑)

もう彼と会うことはないのだろうけど、会ったら言ってやりたいね

「坂本くん、僕の作ったラグタイム聴かせてやろうか」・・・ってね(笑)

「マッチボックス」は結局めぼしい成果も上げられずに短い期間で解散、ヨシツグさんはふたたび公安の人に見守られながら故郷に帰っていった

僕ら冷や飯組はいよいよどん詰まりの中にいた・・・何か新しい展開を見つけないと

僕らはマジでてんぱっていた       続く

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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