僕らの北沢話  30

すぐに資金稼ぎのための活動が始まった 修子は今まで通りクラブでの仕事を続け、有海、増田の両名も修子の斡旋によりなんとか同じ「ハコ」の世界での仕事を手に入れた

そして僕は・・・僕は「後方援護」というポストについた 彼らが仕事に出ているあいだ家の用事すべてを任される「ハウスキーパー」の役割を仰せつかった 主に全員の食事の世話が僕の一番の仕事だった それまで料理なんてあまりちゃんとしたことがなかったが「あなたは器用だから」という修子の意見を励みにこの役割を引き受けた

さあ、タイヘンだ 有海、増田もそれまでほとんど経験のないハコでの仕事に毎日悪戦苦闘していた たしか有海は当時板橋区の「蓮根」という僕は聞いたこともないような場所のスナックみたいなeki店で弾き語りをしていた 下北沢からはかなり遠い場所だったが、ハコの仕事を始めた頃の修子がそうであったように「駆け出し」のハコ屋はまずそういう都心から遠いところの仕事しか取れなかった

「本当に遠いんだよ~」、と有海がよくコボシていたのを覚えてる

増田のほうはどこの店に言ってたかは覚えてないが、彼のちょっとツッパリっぽい風貌とキャラクターがお店の特にホステスさんたちにけっこう人気があったみたいだ

そして僕も悪戦苦闘していた まともに今までちゃんとした料理なんてやったことが無かったので、おかずまず書店に行き料理の本を3冊ほど買ってきた それもなるべく予算をかけずに美味しい料理が作れるようにと確か「290円以下で作れる美味しいおかず」なんて本を買ったのを覚えてる

その本を見ながらあれこれやってみたが最初は失敗ばかり・・・食事の時間に皆がそれを口にした瞬間の微妙なリアクションで「ああ、これは失敗だった」・・・とガックリすることもしばしば しょっちゅう「これは何だ!」と厳しい批判をいただいていた(笑)

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しかし、そういうことをくり返しかなりな回数を皆に実験台になってもらいながら、少しずつ料理の技術とセンスを養っていった 実はその後僕が料理人として身を立てることになった出発点がこの時代にあったのだ

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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