僕の吉祥寺話 15

さて・・・吉祥寺のぐゎらん堂に来ていた面々・・・それは高校生から老年の人まで様々だった

僕は高校生グループとは没交渉だったが年上の人たちとはずいぶんと親しくしてもらっていた

青林堂の長井さんは当時若者の一部に圧倒的に人気のあった月刊漫画誌「ガロ」の編集長で春樹さんともとても深いつながりを持つ人である意味「著名人」だったが、若いチンピラな僕なんかも気さくに相手をしてくれた 普段店で飲んでいるときは気さくで優しい”おじさん”だった

その青林堂とのパイプがあったのとシバが漫画界にもつながりがあったのでぐゎらん堂には何人もの漫画家がよく来ていた

その代表が「ガロ」でも異彩を放っていた鈴木翁二だ 「マッチ1本の話」とか彼の作品には本当に傑作が多い 素晴らしい作家だったが酒飲むとちょっと”やっかいな”男だった(笑)

僕がすごく尊敬していた人で「ゴウシ」という人がいた「豪氏」だったのか「豪士」だったのかは今では不明だ アゴヒゲを蓄えレザーのライダージャケットをまとった彼は春樹さんに言わせると「元かみなり族」なのだそうだ なんだかおっかなそうなイメージだがバイクが大好きで穏やかで優しい人だった ろくにものを知らずにナマイキなことばかり言う僕の話をいつもニコニコしながら聞いてくれてた その後家族や仲間と一緒にアメリカに移住したのだが・・・

「ホシくん」という僕より3~4歳年上の絵描きがいた よくシバの部屋で一緒に飲んだ仲間だ すごい酒好きで鈴木翁二の漫画の登場人物にもなったことがある

同じく絵描きで「のってくん」という友人もいた 彼は僕の家のすぐ近所に住んでいた 空き瓶で「ジャグ」を吹くのが上手くて初期の武蔵野タンポポ団のメンバーだったが外されたほうの一人だ のちにシバのアルバムに1曲参加している 彼には色々お世話になった

「キヨシ」は本名ではない 当時ぐゎらん堂の従業員でもあったがシバファミリーの一人 今は故郷の北海道に帰りむこうで写真館を営んでいる 今でもたまに連絡をくれる

「ヘーさん」は羽良多平吉が本名だ デザイナー兼イラストレーターでぐゎらん堂の「月に赤猫」のマッチのデザインや「あがた森魚」のレコードジャケットのデザインをやったり、後にYMOのデザインなども担当した人だ この人も僕は色々な話を言ったり聞いてもらったりしていてお世話になった そして、彼の隣に写っている女性・・・これが僕の妹のメグだ

当時彼女はぐゎらん堂ではちょっとした「スター」だった メグを知らないやつは”もぐり”だといわれたかどうか・・・そういう彼女の兄でしかも彼女の紹介でぐゎらん堂に行く経緯を持ってた僕はずいぶんしばらくのあいだ多くの人から名前を覚えてあるいは呼んでもらえなかった

「メグのお兄さん」・・・それが僕に付けられた”代名詞”だった ちょっと居心地の悪い時期がしばらく続いた

そんな僕にもついに「源氏名」がつけられる時が来る

続く

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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