僕の吉祥寺昔話  8

僕が行きたかったところ・・・そこへ行くには僕の父が一緒でなければならなかった

その地下街をずうっと抜けた奥のほうに父の職場はあった ところでその建物は全館空調が効いていた 真冬に行くとどんなに外は寒くても館内の通路にはスチーム暖房が効いていてむしろ暑いくらい すれ違うアメリカ人たちはみなTシャツ姿だった こういうところも「アメリカってすげえなああ~」と当時の日本人少年を驚かせたところだった

さて、父の職場・・・そこはこの建物全体の電気を管理する場所で室内の壁には一面メーターやらo0400030012512085673スイッチやら表示ランプとかがあってその当時映画で観た「地球防衛軍」の司令室みたいだった

そこに父は居た カーキ色の肩にの付いたユニフォームを着た父はちょっとカッコよく見えた 僕を見ると「おお、来たか」 そう言い 僕を伴ってそこから出るとある場所に向かって歩きだした

img_1行き先は言わなくても彼にはわかっていた その地下通路を抜け少し狭い通路に入る その先に一軒の店舗のようなものがあった 入ると広いホールにテーブルとイスがいくつも置かれている 壁側にはカウンターがあってその奥は厨房になっていた そう・・・今の日本のファーストフードのような場所 父はそこを「スナック」と呼んでいた

この建物の中にはそこのほかにもっとちゃんとしたレストランンもあったが、僕はこの「スナック」にq_hamburger_l来たかったのだ そして僕のお目当ては・・・父がカウンターの従業員に向かって注文をする「ハンバーガーと・・・チェリーコーク1つずつ」 そう、僕のお目当てはこれだったのだ

マック当時、日本にはまだハンバーガーという食べ物はまったく浸透していなかった 日本で最初の「マクドナルド」が銀座にオープンしたのが1971年 当時の日本人はハンバーガーの味どころか存在すら知らなかったのだ 当時、小学生にとってその”ハンバーガー”はまさに「アメリカの味」どころか「文化」だったのだ 今となってはどうってことないのだが、大き目のパンの中にレタス、トマト、オニオンと一緒に挟まれたハンバーグは夢のように美味しかった そこに一緒に入っていたピクルスはまるで宇宙からやってきたような味がした

そして「チェリーコーク」だが・・・これは今でも「日本コカ・コーラ」から販売されてる「ドクター・ペッ41Kmk7OIzML._SY300_パー」とまったく同じものだ これは1973年に販売開始されたとある

もちろんここには「コカ・コーラ」もあったのだけどアメリカのそれは(当時日本でも発売されていたが、それとは別物で)味が濃くて薬臭かったので僕は好きでなかった

とにかくこの「ハンバーガーとチェリーコーク」のセットは僕にとってはたまにありつける「夢のご馳走」だったのだ

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