仲田修子話 39

さて、ここから「仲田修子話」も次の章に入る

その頃母は一応保険の外交の仕事をしていたが成績があるわけもなく収入も全然無かった

高校を中退した修子はとにかく何かの仕事をみつけなければならなかった そしてすぐに近くの職安に行った 職安の対応は細かい希望なんか聞く耳も持たず「高校中退ならこういうところへ行け」とばかりに問答無用で修子はカーラジオの組み立て工場を紹介された  工場がどこにあったかはよく覚えていない(この頃は修子の精神状態は悪いままだったので記憶が飛んでいるようだ)

行ってみた工場は小さく従業員は20人くらい そこでの仕事の内容はラジオ用の基盤に朝から晩までハンダ付けする作業・・・同じ箇所にハンダを付けてゆく・・・来る日も来る日も 単純で単調な同じ作業  賃金は必死に働いても月給で2万円行くか行かないかくらい 当時家賃は5000円 物価も安かったとはいえ 修子が稼ぐその2万で家族三人が暮らしていたのだ 修子はせめて弟だけにはちゃんと高校を卒業させてやりたいと思っていた しかし、仕事はあまりにも単調で辛いものだった その工場には半年くらい勤めたが、すっかりイヤになって「もう辞める」と会社に告げると当時そういう労働者は需要が多かったのでそこの専務や社長までが家にやってきて「なんとか思い留まってくれないか」と引き止められたが、何が何でもイヤだと断り結局退職することになった

何がイヤだったのか・・・というと工場での作業は奴隷労働みたいでそれを毎日繰り返す自分の人生は一生こんなことばかりやって終わるのかと思うと目の前が真っ暗になるような気分になった まだ16歳でついこの間まで高校生だったのに

象徴的な出来事がやがて起きた・・・

ある日自分達が住んでいたアパートのすぐ前の家が火事になった もう火の粉とかがばんばん飛んで家に入ってくるほどだった 修子は必死で逃げなければとわずかな貴重品、預金通帳とハンコウを持って出る準備をしていた そのさ中母親は逃げようともせずただ「ナンミョウホウレンゲキョウ ナンミョウホウレンゲキョウ・・・」とくりかえし念仏を唱えながら部屋の中をぐるぐる回っているばかり 弟はというと窓辺に腰掛け、入ってくる火の粉を浴びながら「きれいだねえ~」と呟いていた(彼の絶望も相当ひどいものだったんじゃないかと修子は回想する) そのとき修子はつくづく思った

「この二人は私が居なかったら生きていけないんだ」・・・と

そのうち火事はなんとか収まり延焼は食い止められ仲田家は焼け出されることから免れた

そのときまだ16歳・・・父親が居なくなってしまったので自動的に修子が「家長」にならざるを得ないという事実を付きつけられたのだった

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