仲田修子話 44

修子はある雑誌に連載されてた女性漫画家の漫画のファンになり、ある日彼女にファンレターを送った すると思いがけず向こうから返事が返ってきて「今度会おう」ということになった 約束したその日、修子は指定された場所に向かった そこは新宿にある「風月堂」という喫茶店だった 地理が大苦手の修子はその場所がどうしても判らず仕方なく近くの交番に訊ねに行った 最初は普通の対応をしていた警官だったが、修子が「風月堂」という名前を出した途端なぜか態度が急変、明らかに敵意を剥き出すような言い方でその場所を教えたので修子は「何故なんだろう」と思ったのだけど解らなかった やっと探し当てて訪れた「風月堂」そこはなにやら伝統のありそうな佇まいのクラシック音楽をかける喫茶店だった ただ、そこに居たお客たちが普通とは明らかに違っていた  修子は知らなかったのだがそれが「フーテン」と当時呼ばれていた連中で風月堂はそのフーテンの集まるメッカだったのだ

さて、ここで「風月堂」と「フーテン」について説明しておこう

『風月堂』は戦後の1946年から1973年まで在った名曲喫茶 1946年、横山五郎が自分の膨大なクラシックレコードのコレクションを基に新宿東口、角筈1丁目(現在の新宿3丁目)に開いたお店 いつしかその名曲喫茶は若い作家や芸能人、文化人などが集まる場所になっていった。

1960年代には、岡本太郎、谷川俊太郎、野坂昭如、五木寛之、寺山修司、安藤忠雄、三枝成章、長沢節、白石和子、三国錬太郎、ビートたけし、岸田今日子、唐十郎、などというそうそうたる顔ぶれの人たちもそこに来ていた

普通の名曲喫茶がいつのまにか”若者文化の聖地”となっていった その後、「べ平漣」の活動の拠点となったり、全共闘の学生達、ヒッピー、フーテンなどが出入りするようになり、店の雰囲気も変わり、戦後の新宿文化の象徴だった「風月堂」は1973年8月31日閉店

「フーテン」は正式には「フーテン族」と呼ばれていてその語源はもともと瘋癲という呼称、精神状態が異常なこと及び、そういった人をさしていた

しかし、後になってそれは「決まった仕事にもつかずぶらぶらしている」というような者に対して使われるようになる ご存知「男はつらいよ」の主人公「車寅次郎」は通称「フーテンの寅」と名乗ってたがそれはまさにそういう意味だった

さてそれで「フーテン族」とはやはりそういう意味で当時の高度経済成長の日本でほとんどの人々が汗水たらして必死で働いている世間に背を向け、何もせずただぶらぶらして日々を過ごしている若者の集団のことを指していた 60年代後半の新宿あたりを中心にそういう連中がたむろしていた ただし・・・これは当時高校生だった僕も誤解していたのだが、新宿駅の東口のいわゆる「グリーンハウス」あたりにたむろしてシンナーなんかを吸っていた連中はどうも「フーテンまがい」だったようでマスコミは面白がってそういう連中のことだけを「フーテン」と称して揶揄していたが、実際の本家の「フーテン」はそういう連中とは一線を画していたようだ

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