仲田修子話 68

こんな高待遇に修子は大喜びした・・・かと思うとそうではなかった

彼女の心の中は喜びとは正反対で「こんなことをやっててこんなに高額のお金を貰うのは詐欺なんじゃないか」そういう罪悪感で一杯だった

最初歌い始めた頃は歌えるレパートリーはわずか30曲ほどしか無かった これではとてもそれだけの高待遇に応えるだけの仕事は出来ない

そこから修子の死ぬほど苦しい努力の日々が始まった

なんとかレパートリーを増やさなければマズい・・・そう思った修子はある行動に出た その「アーサーベル」の仕事が終わると深夜から朝方までやっている弾き語り歌手が入っている他の店に行き、そこで歌ってる歌手の歌を聴きながら歌詞をメモり1回でメロディーを覚え家に戻るとそれに自分でコードを付け練習し次の日には自分の店で歌う・・・そんな離れ業をやり続けたのだ ほかにもリクエストされた曲で出来ない曲があると「次においでの時には歌えるようにします」と言っておいて仕事が終わるとその翌日すぐさまレコード店に走りその曲の入ったレコードを購入し必死にその曲を覚え歌えるようにした とにかく必死だった

「人生であれだけ努力したことは無い」と修子は語る どんなに辛くてもどんなに努力してもこの仕事をやろう・・・もうあの工場には二度と戻りたくない・・・

アメリカには黒人シンガーの中で「コットンフィールド系」と呼ばれた人が居る「ティナ・ターナー」や「エラ・フィッツ・ジェラルド」などがそうなのだが彼女達は元々は南部の貧しい黒人家庭で育ち綿畑などで過酷な労働・・・それはほとんど奴隷と変わらなかったのだが、修子もまさにそういう道を通ってきたミュージシャンだったのだ

なんとか自分で一人前にレパートリーを持つことが出来たのは始めて4~5ヶ月くらいしてから それでもレコードを買ってきては曲を練習する・・・それは日課になっていた とにかく「今日一日をどうやって生き抜くか」・・・それだけを考え続ける毎日が過ぎた そういうことをやっていてそのクラブで歌っている間にレパートリーは100曲を超えた

そして修子はその店で1年間歌い続けていた すると・・・4ヶ月ほど経った頃から驚くような事態が起きた なんとその間に「アーサーベル」の来客数が2倍に増えたのだ 明らかにそれは修子の人気のせいだった もう店にとっては無くてはならない存在になっていた

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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