仲田修子話 113

とにかく「国立第七養老院」という曲を聞けば「この曲をどこかの老人ホームへ行って歌うといい」とかいうプロデュ-サーとか「シンデレラのお姉さん」の中の「つらいわ・つらいわ・・・」の部分が「ちっとも辛そうに歌ってない」などとケチをつける演歌系のプロデュ-サーが居たり・・・

「国立第七養老院」

「シンデレラのお姉さん」

「あなたの歌ってる歌の歌詞の意味がわからない」などという相手に修子は「ええ、私の曲は知能の高い人にしか解らないですから」などとやり返してやっていた

それだけ言ってもなおしつこくあれこれ言ってくる相手に対しては「あの、失礼ですがレコード業界なんてものが出来るずうっと昔から歌ってものは有ったのですよね」

と言うとさすがの相手も何も言えなくなってしまった

こうしてどうしようもない「メジャー系」の連中どもとの対戦ををすべて「返り討ち」にした修子はもう独自の道を進んで行くことにした

しかし、どうしようもないのはこういった業界人たちの中だけに居たわけじゃなかった

たとえば今でも現存するあるライブハウス「H」に出た時 ここは「ライブハウス」という肩書きを背負っていたが店の営業方針は「フォークを聴かせるハコ」というような形をとっていた そこにたむろする周りの出演者たちからは

「ギターがヒドい」「リードギターと一緒に演らなきゃ聞けたもんじゃない」などと難癖をつけられたりしてたが、修子は一切相手にしなかった

その店に出演していたシンガーの多くは男女の恋愛のことばかりをテーマにした歌を歌っていて、男なのに「私は・・・」などと女性の言葉で歌う者も多かった

それらの曲の内容は「ラブソング」というよりは「男女の色事」で出来上がっていて、そのあまりにも軟弱で低レベルな歌に修子は本当に吐き気がする思いを感じていた その後、そういった連中を表わす言葉として彼女は「野菊」という名称をつけて、今でもそういう連中のことをそう呼んでいる

そうやって色々なライブハウスに出続けていた修子だが、ある日吉祥寺にある老舗の店に出演した 1度目は何事もなく2度目にそこに出たときのことだ 普段はやらないことなのだがその日、珍しく修子は演奏を始める前にちょっとビールを1本だけ飲んだ

そして演奏が始まりある曲を歌い始めた時のこと・・・

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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