仲田修子話 120

それはたしか「仲田修子とペーパーナイフ」が最後に「ぐゎらん堂」に出演したときのことだ ぐゎらん堂はライブハウスの元祖ともいえる店だった が、ライブは毎日行われていたわけではない 週に1度 それも水曜日の夕方5時にスタートという今では考えられない時間帯で開かれていた

しかし、それにも関わらず毎回多くのお客がライブを観にやって来ていた 当時はまだ「ぴあ(注)」などの情報誌などが出てきたばかり・・・勿論インターネットなどは気配すら無かった時代だ いいライブを求めて嗅覚や触角を張りめぐらし若者たちはライブを観にやってきた 今とは違う「熱気」があの時代には確かにあった

そして「仲田修子とペーパーナイフ」はここでももうかなり評判の人気のある出演者だったので、彼らのライブにはいつも満席になるほどのお客が来ていた

その日もほぼ満席で始まった彼らのライブ 客の反応もすごくいい この頃は修子、有海、増田のコンビネーションも素晴らしいものになっていた その状況を嬉しく思いながら修子はYAMAHAのアコギをガシガシ弾きながら歌っていた

するとそこへ少し遅れて入ってきた一人の青年が目にとまった その若者は一番後ろの席に座った その姿を見て修子は「おや?」と思った

濃いブルーのスタンドカラー(当時は「マオカラー」と呼ばれていた)のジャケットを着て手には何か図面でも入ってそうな大きな筒を持っていた その姿はその日ぐゎらん堂に来ていたほかのどのお客とも違う(大抵はヨレヨレのワークシャツとかを着ていた)・・・あきらかに浮いてる感じだった

「なんかお洒落で知的な人だな」「音楽とかやる人種じゃないんだろうな」

演奏しながら修子はそう思った

ところが、修子たちが演奏を終わるとその若者が修子のところにやってきた そしてこう言った

「演奏、すごく良かったです! それで・・・あの・・・」

「実は僕もライブやってるんです もし良かったら1曲歌わせてもらっても・・・いいですか?」

「おや」・・・意外な申し出に修子はちょっと驚いたが微笑んで
「いいですよ、どうぞ」・・・と自分のギターを彼に貸した

そのギターを抱えるとその青年は演奏し始めた

注;「ぴあ」

雑誌『ぴあ』は、中央大学の学生だった矢内廣が1972年に学生起業で創業して創刊し、映画情報とコンサート情報をまとめた雑誌として出版された1984年に電話注文でコンサートやイベントのチケットを予約販売をするチケットぴあ』を開始して人気を博し1999年にチケット販売専用のWebサイト「チケットぴあ」を開始している。雑誌『ぴあ』は薄い装丁で小さな文字を用いて「できるだけ客観的で完全な“情報のインデックス”」を目指し1984年頃の発行部数は毎号約45.7万部で、購読者は20歳代サラリーマンやOL、大学生、高校生の合計が75%、残りが主婦や中学生で若年層がその大半であったが、『ぴあ 首都圏版』は2011年7月21日発売号を最後に休刊している 表紙はイラストレーター及川正通が担当し「最も長期間にわたり同じ雑誌の表紙イラストを書き続けた人物」としてギネス世界記録に登録されている。(wikipediaより)

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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