仲田修子話 146

「今度は・・・音楽のスタジオをやろう!」

もちろん他のメンバーとも慎重にミーティングを重ねたことの結果だが、修子はこう考えた

「これからはバンドブームがきっと来る 今まで音楽というのは聴く・・・受けるものだったが、これからはその聴き手だった人たちが自分でやり、送り手になろうとする・・・そういう動きがきっと出てくる」

「バンドブーム」や「カラオケブーム」がやってくるのは80年代に入ってからだ でもブームが広まってからそれに対応するのでは遅いのだ まだ世の中は「ディスコブーム」の真っ只中で原宿に「竹の子族(注;1)」が出現した頃だった

しかし、一方で「サザンオールスターズ」が「勝手にシンドバッド(注;2)」で衝撃的に登場して、それまでの歌謡曲やニューミュージックなどの”プロの手”によるものでない、明らかにアマチュアなバンドがいきなりヒットシーンに飛び込んできてそれもトップに駆け上がってしまう すでに「キャロル」などの前例もあったが、まだまだ音楽の「業界」では素人のやる音楽なんて誰も見向きもしなかった時代だ 「メジャーでなければ・・・人でない」だったのだ

その時期に「これからは絶対にアマチュアの時代が来る」

そう予見した修子の読みはどうなるか・・・それはやってみなければわからなかった

作るといっても実際にどうやって作るのか・・・ご存知かとは思うが音楽スタジオというのは”音を出す”ためのスペースだ 当然ドラムスとかアンプとかマイクロフォンを使った、かなり大きな音が出るのだ まずその音が外に漏れてはいけない 無人島か山奥の一軒家でない限りそれは必須条件 そしてその音を出す室内も変に音が反響したりこもったりしてはいけない 風呂場で演奏することを考えてみればわかるだろう

そういうわけで「スタジオ」を作るためには可能な限りの「防音工事」をしなくてはいけない この”防音”というのがかなりやっかいで、たとえばグラスウールとかで壁から漏れてくる音を防いでも、柱や床下の”根太”などを伝わってどこかで響いてしまうのだ

理想をいえば完全に空中に浮いていて外部のどこにも触れない部屋を作ればいいのだが、そんなことは出来ない ではどうすればいいのか・・・

するとここでメンバーの一人の増田が手を挙げた

「僕が設計してみるよ」

修子は「おや!」と一瞬思ったが、彼に任せてみることにした

するとその次の日から増田はあらゆるところから資料を集め、全く独学でスタジオの設計を始めたのだ 彼が工業高校を出ていてそういう音楽的なメカにも詳しいのは修子も知っていたが、それまではどちらかというと”ツッパリ”で勉強は苦手・・・そう思ってた彼が以外にインテリジェンスを持っていることにびっくりしたが、同時に嬉しかった

あの「S」や「M」から追い払われたり、されそうになってた彼を自分は守り続けてきた それが今こういうことになっているのだ

やがて増田は完璧なスタジオの設計図を完成させた

あとは工事にかかるだけ・・・ところがここで困ったことが起きた

注;1「竹の子族」70年代後半から原宿の歩行者天国通称「ホコ天」で若者たちが集まって集団で踊るパフォーマンスをし始めた この名前の由来は「ブティック・竹の子」という店で販売していた衣装を着ていた者が多かったため 踊りの動きは極めて日本的でその後の「パラパラ」や「よさこい踊り」にも繋がってると思う

注;2「勝手にシンドバッド」 サザンオールスターズが1978年に出したシングルデビュー曲 発売と同時にその歌の歌詞と歌い方に対しての物議をかもした 「何を歌ってるのかわからないほど活舌が悪い」とか「歌詞の意味がムチャクチャ」などと散々批判されたが、後のソングライターたちに大きな影響を与えたことも事実だ

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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