仲田修子話 158

再開した修子バンドのライブは2ヶ月に1度くらいのペースで行なわれた
彼女のバンドはあっという間に人気に火が付いた ライブはいつも大盛り上がり 来てくれるお客の数が毎回100人以上になるので、ペンギンハウスでの演奏は無理になってしまった(座ってだと40人位が限界で、店に入れないお客も多数出てしまっていた) そこで当時の修子は主に「南青山マンダラ」や「渋谷クロコダイル」「吉祥寺MANDA-LA2」などに出ていた

それからしばらくしたある時、修子は知り合いのミュージシャンに誘われてはるばる山梨県まで出向き、北西部の八ヶ岳にある「パームスプリング」という店に出演した ハコバンドの仕事以外は都外に出ることのほとんど無かった修子にしては珍しい・・・ちょっとした気まぐれだったのだが・・・ 後日そのことを知ってびっくりした・・・のはあの矢島だった 彼は修子の許を去ってから八ヶ岳でずうっと暮らしていた 移住してからは何年も音楽はぷっつりと辞めてギターも滅多に手にしていなかった しかし、修子が八ヶ岳まで来てライブをした「パームスプリング」をその後訪れたことを契機に、彼は久しぶりにギターを弾き始めた それがきっかけになり音楽活動を再開することになる

そのころ修子の評判を耳にした「おやこ劇場(注)」という芸術観賞団体から彼女へオファーがかかった この団体は全国にネットを持っていて、主に子供とその母親に向けてのコンサートを企画していた そこが主催するコンサートに出演してほしいということで、提示されたギャラの額もなかなかだったので修子はそのオファーを受けた そして音響や照明のスタッフも伴ってバンドで全国各地へ出かけて行った

今でもビデオに収録されて残っている2002年に大田区民プラザで開かれたコンサートはこの「おやこ劇場」が主宰したものだった

修子はその時期にも色々な曲を作っていたが「ペーパーナイフ」でやってた頃のようなアグレッシブな内容の曲は影を潜め、同じブルースでも共感しやすい楽しんで乗れる内容のものが増えてきた コンサートの客層は子供が中心・・・ごく普通の人たちだったので、演奏する曲もそういう人たちでも楽しめるようなものになっていった 修子の演奏はどこに行ってもすごくウケた

コンサートは全国各地北海道から九州まで・・・時には3日間くらいのツアーも組んで行われた 修子には毎回現地まで新幹線で行けるだけのチケット代も支給されていたが、彼女は独りだと寂しいのでほとんどは、いつもバンドが移動するときに使う機材車(楽器、ドラムセット、アンプなどを積んだ)に他のメンバーと一緒に乗りこんで移動していた 元々東京の下町の品川というところで育ったせいか、修子はあまり旅というものが好きではなかった だからツアー中には色々なことが起きた

あるときツアーに行った先で初日が終わった夜、その日は妙に疲れてしまい・・・それが原因か修子は突然キレ出した 自分の財布に入ってた1万円札を取り出し、びりびりに破いたりしたがそれでも気分は納まらず・・・次の日の移動中に機材車から突然発作的に脱走し、見知らぬ街をふらふらと彷徨った どこに居るのかも判らず全然名前も知らない駅の前まで来た時、さすがに怒りも醒めていて「これはヤバい」と思い、瀬山の携帯に電話して迎えに来てもらった・・・そんなこともあった

注;「おやこ劇場」 おやこ劇場(おやこげきじょう)(こども劇場(こどもげきじょう)という名称の場合もある)は、親子で舞台芸術を鑑賞し、また他の親子とともに色々な活動をすることなどを通して子供たちの感性を豊かに育てることを目的とした団体である。全国に、同様の団体が多数存在し、基本的に団体が存在する地域を名前に含んでいる。任意団体であるものが多いが、NPO法人格を取得している団体もある。基本的には毎月親子で会費を払って加入し、2ヶ月に1回程度、舞台鑑賞の機会を持つことが多いが、それぞれの地域の特性に合わせて会費、運営方法は異なる。運営は参加者自身の手によって行われており、特定の宗教、政治団体との関係性はない。略称は「おやこ劇場」「こども劇場」「劇場」など。wikipediaより

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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