僕が東京に来た理由 10

だいぶ後になって気が付いたのは、その時僕がやっていたことはその前に蕎麦屋「からまつ亭」をやってた時の経験とすごく似ているということだった。僕がからまつ亭を始めたとき完全な「手打ちそば」という形を選んだ。実はその前に山梨の甲府にあった「藪そば志村」という店で半年ほど修行を積んではいたが、師匠がガンのため亡くなってしまったので教われたことはあまり無かった。おまけに師匠のそば打ちは完全な手打ちでは無かった。よく手打ち蕎麦屋で見かける職人がのし棒を使ってそば生地を伸ばしてゆく作業・・・あれは全く習ったことが無かった。当時は今みたいに素人向けの「そば打ち教室」みたいなものも全く無かった。それで僕は独学でそれを身に着けるしか無かった。

そこでまず手打ちで有名な店でしかも通りに面した場所でそば打ちをしてる店を見つけてそこへ行き、そば打ちをしている職人の作業をじいっと眺めてどのようにやってるのかを目に焼き付け、帰ってからその記憶を頼りに実際にやってみる・・・そういうことを何度も繰り返した。

もちろんすぐに上手く出来るわけがない・・・もう失敗の連続だった。そんなことを繰り返しながら何とか商売としてのそば打ちが出来るようになってやっと開業に至ったのだ。

しかし、最初の内はやはりお客の反応は厳しかった。あからさまに文句を言われるのはまだいいけど、やはりネットなどを使って悪口を書かれるのは本当に辛かった。

しかし、2年3年と毎日必死で打ち続けるうちにいつの間にか「あそこの蕎麦は美味しい」という評判が立ち始めた。その噂を聞きつけてグルメ情報雑誌「HANAKO」も何度も取材に来るようにまでなった。常連さんになってくれるお客さんも増えて来て、時には有名人も・・・なかでも大の蕎麦好きで自ら「そ連」という団体まで作り美味しい蕎麦屋の紹介本まで書いていた漫画家で「江戸研究家」でもあった杉浦日向子さんもその中には居たのだ。

さて、なぜこんなことをずらずら書き並べてきたかというのはつまりこういうことなのだ。

なぜほとんど素人から始めた僕が「からまつ亭」を「名店」と言われるところまで持って来れたか? それは取りも直さず僕が大の蕎麦好きだったからだ。美味しい蕎麦屋があると聞くととにかく行って食べてみる・・・毎日1食は蕎麦・・・それは今でも変わらない。

そしてようやく本題に戻るが、僕が何とかPAをやることができたのはやはり「音楽が大好き」だったからなんだと思う。

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