仲田修子話 135

修子はこう話し出した

「みんな知ってる? レコード業界の年間の総売り上げって豆腐産業とほとんど変わらないって・・・」

誤解されるといけないのでここで説明するが、これは豆腐産業を馬鹿にしてるわけではない

当時・・・70年代頃には「レコード業界」といえばそれこそまるで天下人のような勢いだった 「仲田修子話 87」に出てきた”ミツコ”のエピソードを見てもわかると思うが、この時代「メジャーのレコード会社」に関わっていた人間たちは今でいえば「ITエリート」みたいに肩で風切っていた なにしろ素人やインディーズで音楽活動をやっているミュージシャンたちが今のように気軽にアルバム(当時はまだアナログ盤)を出すなんてことは想像もつかなかった レコードを出してデビューする・・・ということはイコール「メジャーのレコード会社」から出す・・・いや「出してもらう」以外の選択肢はほとんど無かった だから「帰ってきたヨッパライ(注)」という曲が発表されたときはそれだけで一大ニュースになったほどなのだ

そこで音楽をやる人間の多くは皆、目の色を変えて「メジャー・メジャー」と騒いでいたわけで、当然そういう業界に携わってる「プロデューサー」の中には、それこそミュージシャンたちに対して言いたい放題、やりたい放題をしていたものも居て(もちろんそうでない立派なプロデューサーも居たが)、それを受け入れられない連中は相手にされない・・・大体がそういう力関係で出来上がっていた時代だったのだ

しかし、それだけ鼻息が荒かった業界の年間の稼ぎは実際のところ、豆腐屋さんと変わらなかったのである

「その程度の産業の連中が偉そうに私たちをまるで奴隷のようにこき使う 結局私たちは”アーティスト”とか言われて持ち上げられてても、ただの労働者でしか無いんだよ」

「律令制の時代も封建制度にも一般庶民は人間扱いされて来なかった・・・そして現代でも結局は”資本家”だけが人間扱いされていて、その下で働く労働者は人間として扱われない・・・私たちが”人間”になるためには私たちも資本家になるしかないんだよ!」

これは修子が高校中退で散々工場の労働者などを経験してきて、身に沁みていたことだった

そしていよいよ話は本題に入る

注;「帰ってきたヨッパライ」 1967年に関西のアマチュアフォークグループ「フォーククルセダーズ」が自主制作で出したアルバム『ハレンチ・ザ・フォーク・クルセイダーズ』に収められていた曲 解散記念として自主制作LPを録音した。彼らが好きだった名作のカバーの中に、1曲のオリジナル作品を含めることが決まり、本作はその時に生み出された 東芝音楽工業の洋楽レーベル・キャピトルレコードからシングル盤が発売され、ラジオ関西で放送されると、早回しのテープと奇想天外な歌詞で反響を呼んだ「アングラ・フォーク」のブームを生み出した曲 これがきっかけになって「フォークブーム」が始まった

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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