仲田修子話 143

その当時流行ってる「ベストヒットナントカ」などに出てくるような新しい曲もどんどんレパートリーにしていかなければならなかったので、バンドで練習もする必要があった

その練習場は大田区にあった瀬山の実家・・・そこはものすごく大きな建物で、なんとその中に四畳半の「茶室」があった 室内には瀬山のドラムセットが置いてあった そこがバンドの練習場だった

ボロボロの中古車・・・なにしろ購入価格が当時でも諸経費込みで10万円という代物だ エアコンも付いてないその車に5人で乗り込み真夏の焼け付くような暑さの中、修子たちは毎日松戸に出かけた

そのビアガーデンの仕事は正直面白くもなんともなかった ヤケになってある日、「東京音頭」をやったら客席の全員がいきなりステージの前で輪を作って踊り出した
「日本人の血って凄いなあ・・・」あらためて修子はそう感じた

そのビアガーデンの次に入った仕事は新宿の「マーメイド」という若向けのパブだった

そこでは3ヶ月間演奏した

その頃、修子は「ノリ」というものに神経質なくらいこだわっていた とにかく「ノリ」を良くしなくては・・・たとえばダンスのステップを覚えることでその音楽のリズム感を身体でつかむ・・・そういうことも修子がインストラクトしつつ、メンバーの全員が正しいノリをつかめるように務めた

それだけ努力していたのに・・・ある日、いつものようにステージで演奏しているとギターの有海のノリが酷かった

どうしたのかと思ったが、家に帰ると有海が「苦しい」と言い出した

そこで彼の体温を測ってみるとなんと40度もあった そして増田、瀬山の2人も39度の熱・・・修子は扁桃腺取ってたのであまり熱が上がらない体質だったのだがそれでも38度以上あった とにかく全員が悪性の風邪かインフルエンザにかかってしまっていたのだ

しかし、トラを入れることもできない その晩は高熱の3人が自分も苦しい中、必死で40度ある有海の看病をして明かした

そして翌日・・・フラフラになりながら全員仕事に出かけた

とにかくバンドでのハコの仕事には苦しいこと、辛いことが山ほどあった


高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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