今でもそういうところがあるのだが、仲田修子という人はちょっと他人が想像もつかないようなことをやる一種の天才だった
彼女の若い頃のエピソードには本当に数え切れないほどの「伝説」がある
たとえば60年代後半、まだ「フーテン族」というのが流行していた頃、新宿にあった風月堂・・・ここはフーテンたちのたまり場になっていたそうだ・・・というクラシックの名曲喫茶である日突然「ウ~ッ!マンボ!!」と叫びだし「マンボナンバー5」という当時よく知られたラテンナンバーの曲を口ずさみながら踊りだしその店から追い出され「出入り禁止」になり、それだけで終わるならまだしも後日ほとぼりが冷めたころまたそこへ行って同じことをやりまたつまみ出されて2度目の「出入り禁止」を食らうという「武勇伝」を残したりしたのだが、僕が彼女につけた称号で「アナーキスト」というのを彼女も気に入ってくれたが、そのアナーキーな部分に「ファンキーさ」が加わると仲田修子という「想定外の達人」になるようだ
彼女には「新しい遊びを思いつく」という際立った才能があった それはまた「日常」というものからいやでも周りのものを引きずり出すパワーと魅力のあるものばかりだった
たとえばこんなことをしていた
東北沢のアパートのDKには4人ほどが使えるような細長いダイニングテーブルがあった ある日からなぜかそこを喫茶店のカウンターという想定に見立てて彼女と僕とで「喫茶店ごっこ」というのをやり始めた シチュエーションはどこかの場末の喫茶店で僕がマスター彼女が常連のお客という設定にして会話を交わす 「ねえ、マスター最近いいことないよねえ・・・」「修子ちゃん、まあ景気が悪いからねえ・・・そういえばさ 」なんてよくそういう店で交わされている店の主人とお客とのどうでもいいような会話を演劇的に延々とやるのだ
これもいつからそういうことをしようという打ち合わせがあったわけではなく、なんとなく彼女の「ノリ」から始まる・・・そんな感じだったのだ
だからあのアパートは日常の住居であるという役割以上に僕らにとってはシュールな演劇を突然予告なしに始める「舞台」でもあったのだ そしてある日・・・
高円寺ライブハウス ペンギンハウス