「日本一小さなライブハウス」猫屋敷の売り上げはあいかわらず伸びず横這い状態だった
修子は考えた 「このままじゃやばい! 私たち飢え死にしてしまう」
今思えばあと少し頑張れば大人2人分くらいの食いぶちはなんとかなるくらいの売り上げだったのかも知れない しかし、実際はこの一軒の店に最低5人の生活がかかっていた
そしてオープンから1年程が経ったころ・・・修子はついに決断する それは苦渋の選択だった
「私たちバンドを組んで営業に出る それでなんとかこの危機を脱出しなければ」
すでにアメリカから戻っていた瀬山それにもう1人ギタリストを加え、修子は5人編成のバンドで「ハコ」の仕事に再び戻ることにしたのだ
猫屋敷のほうは僕ジミーと丹沢亜郎が守ることになった 亜郎が「すぐには今の仕事を抜けられない」ということでそれまでを僕の友人だったIと修子の知り合いのOさんに手伝ってもらい、やがてコンピューター関連の会社を退職した亜郎が「マスター」として猫屋敷にやってきた
ここから「亜郎&ジミー」という今のペンギンハウスでのコンビが誕生したのだ
そして修子たちはエレキ編成のバンドで松戸のビアガーデン、新宿の「マーメイド」など色々な場所での営業バンドの日々・・・それは79年から81年まで続き、81年の夏には遠く浜松のビアガーデンの仕事まで・・・このとき一度彼らの仕事場に激励に訪れたことがあるが、恐るべき「晴れ女」の修子のせいか毎日晴天続きのデパートの屋上で(雨が降れば休めるのだが)真夏の直射日光に照りつけられながらセッティングをしては演奏をするという日々・・・宿舎に戻ればとにかく少しでもお金を貯めようということで無駄な出費は一切禁止、インスタントコーヒーを何十倍にも水で薄めたものを「麦茶だ」と言って全員で飲むという涙ぐましい緊縮生活・・・インフルエンザで全員が倒れても仕事を続けるなどのもう「苦労話」などという生易しいものではないような日々に追われていた
気がつけば「自分達の活動の場」として作った猫屋敷で修子たちがライブをすることは結局一度もなかった
一体何のためにあれを作ったのだろう・・・などという疑問を考えている暇もないまま只々追いかけられるように毎日を乗り越えてゆくしかない・・・
そうそう・・・僕もこの頃には北沢のアパートには帰らなくなっていた 店が終わるのが明け方、生活時間の問題などもあったし最初の頃はIとOさんのマンションに居候したり吉祥寺の実家に寝泊りしたり・・・色々なことがあったのだが
朝方・・・布団にもぐりこんで睡眠に入るまでの少しの時間ふとあの北沢の日々のことを思い出していた 面倒なことは何も無くみんなが無邪気に気ままに生きていたあの時間・・・途方も無く大きく広がっているように思えた「モラトリアム」な時間 でも今はその時代が終わったんだ
さあ、寝なくては・・・起きればまた仕事だ 皆が必死で頑張って支えようとしているあの店
猫屋敷の灯りを 消すわけにはいかない
高円寺ライブハウス ペンギンハウス