仲田修子話 122

さて、筆者ジミー矢島が仲田修子と出会うきっかけになった「ぐゎらん堂」だが、筆者とこの店との関わりについては「僕の吉祥寺話10話」から同65話までの間に詳しく書かれてるのでそちらも読んでもらえたらと思う

ここでは、かいつまんでその時期にどんな感じだったかの話を・・・

最初カントリーミュージックやブルースに影響を受けてそういうスタイルの音楽をやっていた筆者はぐゎらん堂で「シバ」というシンガーに出会い、彼と一緒にバンドをやったりしていた しかし、そのうちこの界隈で音楽をやっている仲間たちとの価値観のギャップに突き当たりその辺りからなんだか周りからは浮いた「アウェイ」な感じになっていた

なにしろ戦後のエレクトリックブルースを聴きあさり「エルビス・プレスリー」が最高にカッコいい・・・そう思ってるのは自分だけで、相変わらず「ミシシッピ・ジョン・ハート(注;1)」などを「最高のブルースマンだ」という人たちとは意識も好みも食い違っていた


そこへ現れた仲田修子はあらゆる意味で本当に「コペルニクス的転回」だった 筆者はいまだにその時の彼女の服装から立ち居振る舞いまではっきりと覚えている

タータンチェックのワークシャツの上に茶色いスエードのベストを着て下はスリムのブルージーンズ 当時は胸くらいまで伸びてたストレートのヘアを後ろにポニーテールに縛り、大きな銀縁の眼鏡を掛けていた(目が悪いのかと思ったら実は彼女の視力は2.0くらいあったので完全なダテ眼鏡) そしてYAMAHAのFSモデルのギターを本当にパワフルに弾いて歌う その歌声は透明で少しも濁りが無く・・・それでいてもの凄く「本物」を感じさせるブルージーな声だった

そして彼女の歌うオリジナルのブルース・・・それも今まで筆者が知っていた日本のどのブルースシンガーとも違っていた 何とも知性と深みを感じさせる歌詞・・・すごく品性がありながらどこか凄い悲しみを湛えているようで・・・ダイレクトに聴き手の心に突き刺さった

「いつかきれいな」作詞、作曲;仲田修子

いつかきれいな 月夜の晩に

お前に会いに 行こうと思う いつかきれいな

月夜の晩に

いつかどこかで お前に会った

時の流れに身をうちまかせ いつかどこかで

別れ告げてた

いつかどこかで おまえに会える

夢見て夢見て ただ夢を見て いつかどこかで

必ず会える

「いつかきれいな」音源 仲田修子&ミッドナイトスペシャル

一見ラブソングのように見えるこの歌が実は彼女が亡くなった弟のために書いたものだと筆者が知ったのはずうっと後だったのだが

注1;ミシシッピ・ジョン・ハート 1892年3月8日、ミシシッピー州キャロル郡生まれ 黒人だが白人的なフィンガー・ピッキング奏法を使う 1928年にオーケーのスカウトマンに見出されて20曲を録音した後は引退し農夫や人夫をして暮らしていた 1963年3月にハリー・スミスにより再発見されニューポート民謡祭に出演して好評を得る やさしい歌声と白人フォーク・ギタリスト達に通じるギター奏法もあって、ヘイテイジ、フライライト、ヴァンガードなどに録音したり、フォーク・フェスティバルに数多く出演した 当時は「ブルースマン」というカテゴリーに含まれていたが正確には「レッドベリー」や「ファリー・ルイス」などと同じく黒人のフォークシンガー「ソングスター」である

注2;「YAMAHA FS 」1960年代に楽器メーカーヤマハから発売されたアコースティックギターの名器 安いのにすごくいい音で、特に低音の「ドッカーン」という迫力は他のギターには無かった 当時仲田修子はこれにライトゲージの弦を張ってガンガン弾いていた

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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