僕の吉祥寺話 31

ぐゎらん堂では色々なことが行われていた 漫画の原画展・・・これはやはり雑誌「ガgw-014-softball at mitakaロ」の編集長長井さんとのコネクションが強かったからだと思う・・・SPレコード鑑賞会とか、たまには野外で野球大会まで開催されていたのだ(僕がどこにいるかわかるかな)

でも、やはり僕が一番好きだったのは毎週水曜日に開かれていた「水曜コンサート」だった

これは水曜日のなんと夕方の5時スタートという今では考えられないような時間帯で行われていたのだが、ここにはもう有名なミュージシャンたちから僕のようなまったく無名の駆け出しシンガーまで出演させてもらっていた

このライブはなかなか盛況で春樹さんも不思議思っていたというが、どこで情報を嗅ぎつけるのかかならず多くの聴き手がやってきていたことだ

あの当時から抜きん出て人気のあった友部正人の時なんか入りきれない人が出るほどトモベ

驚くことに当時下手くそでまったく無名だった僕でさえ常に10数人ぐらいの聴き手が来てくれていたことだ

まだ「ライブハウス」なんて言葉もなかった時代・・・今にして思えば僕らは本当に恵まれていたと思う そして、来てくれた人たちからの色々な感想や批評・・・時には厳しい言葉もあったが、それが本当に自分を鍛えてゆくのに大きなありがたいことだった

あの当時、僕の演奏を聴きに来てくれていた皆さん・・・今はどうしておられるのかな・・・本当に感謝しています

そういえば、高田渡が亡くなったときに武蔵小金井の公会堂で開かれた追悼イベントに僕も参加シンジュクしてシバの「バイバイブルース」でギターをつけたのだが、そのときシバがMCで僕を「・・・ジミー矢島!」と紹介してくれたとき会場の客席から思いのほか多くの皆さんから拍手をいただき「ああ、覚えててくれたんだな~」ととても嬉しくなった

この演奏はシバのアルバム「新宿発・謎の列車」に収録されてるので、もし興味を持たれたらチェックしてみてね

ヨジョウハン

さて、ぐゎらん堂の水曜コンサートには色々なミュージシャンが登場していたが、たとえば「世情半」なんていかにもその時代らしい名前で出ていた高校生のユニット、そこのメンバーだった小林くんは当時ブルーグラスバンジョーに熱中していて、そのうちなぜか4弦のテナーバンジョーにシフトチェンジして、いつのまにかジャズギターを弾き、その中でもジャンゴ・ラインハルトのスタイルになってゆき、その後はウクレレ奏者にもなったが、高田渡のユニット「ヒルトップストリングバンド」の一員でもあった彼は今ではこう呼ばれているらしい

「キヨシ・コバヤシ」キヨシコ

知ってるかな? 他にも色々なミュージシャンたちがその産声をあげていたのだよね・・・

続く

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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